東京大空襲
今日は3月10日、東京大空襲の日であります。
この日だけでなく、また東京だけでなく、鬼畜の所業に倒れた全国の犠牲者の御霊やすかれ、の思いで東京大空襲を考えます。
予見していた「反軍」ジャーナリスト
桐生悠々というジャーナリストをご存知でしょうか?
戦前から気骨の反体制ジャーナリストとして知られた人で、昭和8年8月11日の「信濃毎日新聞」紙上に「関東防空大演習を嗤ふ」という記事を掲載しました。
少々長くなりますが、青空文庫に全文がありますので引用しておきます。
防空演習は、曾て大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。
将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある。
だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。
こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡それが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう。
特に、曾ても私たちが、本紙「夢の国」欄に於て紹介したるが如く、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、また如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも、市民の、市街の消灯は、完全に一の滑稽である。要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。
いかがでしょうか?
本土上空へ敵機に侵入されると爆撃を完全に防ぐのは難しい、洋上で迎撃すべきである、って言うことですね。
この記事が信州の在郷軍人会の怒りを買い、不買運動を起こされてしまって桐生は信濃毎日をクビになるのでありますが、私にはこの記事が「反軍」とはとても思えません。
安上がりな防空演習やるより、軍事費を掛けて防空部隊を充実せよ、って言ってるなあ、と思うのです。怒っているのは在郷軍人会であって「軍」ではありませんしね。
ともあれ、桐生悠々は10年少々前に東京大空襲の恐ろしさを論理的に予見し、警告を発していたのでありました。
では、警告を受けた大日本帝国は「東京大空襲」にどのように備えていたのか?
昭和13年のポスター
これは昭和13年に東部軍司令部監修で配布された「防空図解」という一連のポスターの一部。
桐生の警告から5年、いかがでしょう。暢気というか、国民を安心させようというのか?
さらに昭和16年には従来からの「防空法」が改正され、空襲の恐れがあるときも事前の避難が禁止されてしまうのであります。
3月10日の空襲は最大規模だったのか
帝都への空襲は昭和17年4月18日のドゥーリットル隊の奇襲を皮切りに、死者が出たモノに限っても56回あったとされています(東京都下なのか23区内なのかは不明、申し訳ない)。
そのなかで、最大の犠牲者を出してしまったのが3月10日の「下町大空襲」、一般には東京大空襲なのです(以降、東京への空襲だけを書きますので、「下町」としました)。
この時来襲したB29は279機、投下された焼夷弾は1665トン。現在の台東区、墨田区、江東区にばら撒かれて一夜にして10万人の民間人が犠牲となってしまいました。
民間人はポスターのごとく焼夷弾を処理しようとして、犠牲を増やしてしまったのでしょうか?事前に避難できなかったことが原因なのでしょうか?
転機は先帝陛下だった
空前の大災害から一週間、3月18日。先帝昭和天皇が被災地をご視察させ給いました。
ご視察を終えられた陛下は侍従に「これで東京も焦土になったね」とのご感想をおもらしになったのです。玉言はたちまちに帝都の安全を守る者に伝えられました。
特に目覚ましい反応を見せたのが警視庁でありました。
警視庁はそれまでの防空方針をたちどころに変更したのです。
「火に地下室は禁物」「避難の時を誤るな」「なるべく風上に逃げろ」のように、「まず逃げる」という方針を徹底的に都民に指導したのです。
約一月の後。4月13日に行われた「城南大空襲」では、520機ものB29が来襲し焼夷弾3646トンが投下されるという「下町」の倍近い規模となりました。
そのまた一か月後の5月25日と26日の「山の手大空襲」では、464機、3258トンという記録が残っています。
この4・5月の空襲で東京の区部はほぼ全面的に焼け野原になってしまったのですが、両空襲の死者は合計で7300人ほど。
東京大空襲全体の犠牲者の9割以上は初回の「下町大空襲」に集中しているのです。
もちろん、3月10日は冬型の気圧配置であって、風が強く吹いて大火災になったこと、狙われた下町地区には木造家屋が密集していたこと、川が多く避難が難しかったこと、など地理的・気象的な要因は大きかったと思われます。
ではありますが、先帝陛下のお言葉を受けた警視庁の「人命優先」の避難方針も大きく預かっていると思う所であります。
東京大空襲の記録 (リンク先は電脳大本営のサイト内ですが、かなりショッキングな画像があります。ご理解の上で閲覧お願いいたします)