アメリカの水上機母艦

夕闇迫る水上機母艦日進

「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」
自軍の長所だけ知って浮かれていても、有効な戦訓は得られません。って事で今回は語られることの少ない、いやたぶん「無い」大東亜戦争でのアメリカの水上機母艦の活躍ぶり。

まずは我が軍から(笑)

大から小までうじゃうじゃと存在する古今東西の海軍の中で、水上機を一番大規模かつ有効に活用したのは大日本帝国海軍だ、と思っていませんか?

第一次大戦を最後に使われなくなった「戦闘飛行艇」を水上戦闘機の形で復活させ、水上急降下爆撃機・水上高速偵察機を開発・配備。あげくは潜水艦搭載の小型爆撃機まで。

ドリーに乗った強風

ドリーに乗った強風

一般的な艦船に搭載された水上機も偵察に大いに活用されています。
ミッドウェー海戦では「利根」の発進させた零式水偵が「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。」という電文で有名な(些か遅すぎた)敵艦隊発見をしていますし、マリアナ沖海戦でも最初に米空母部隊の姿を捉えたのは、巡洋艦搭載の水上機でした。

ラバウルで撮影の零式水偵

ラバウルで撮影の零式水偵

またガダルカナルを巡る戦いでは、ショートランドやレカタに進出した水上戦闘機や複座の水上観測機が戦闘機の代用として活躍。米軍機の攻撃から味方の艦隊や船団を護衛するばかりでなく、米軍基地に攻撃も掛けています。「R方面航空隊」に詳しく書いています。

戦局が押し詰まってからも、例えば大津海軍航空隊の水上戦闘機「強風」が琵琶湖を発進してB29の迎撃に当たったことがあります。

日本海軍の水上機は日支戦争・大東亜戦争の全期間で偵察や哨戒は当然として、制空や対地・対艦攻撃など、ありとあらゆる任務に投入されたのです。
大日本帝国海軍はこの水上機の活躍を支援するために多数の水上機母艦を整備しました。

水上機母艦若宮

世界初の航空母艦(笑)にして水上機母艦の「若宮」

第一次大戦の青島攻略作戦で早くも「航空母艦・若宮」が戦闘に加わり艦載機がドイツの軍用機空中戦を繰り広げています。
航空母艦と書きましたのはこの時の「若宮」が「航空母艦」に類別されていたからで、この当時は世界の何処にもフロートの無い飛行機を運用できる航空母艦はありませんでした。

「若宮」は水上機母艦で、艦載機はもちろん水上機ばかりです。
日支戦争で活躍した「能登呂」、ミッドウェー海戦や第2次ソロモン海戦等に参加した後に改造空母となった「千歳」「千代田」。ガダルカナル輸送に活躍した「日進」(この記事の上に表示されてる夕闇迫るイラストが日進です)。さらには特設水上機母艦「神川丸」「君川丸」…

彼女たちは水上機の整備スペース、搭乗員の休養地としての本来の任務だけではなく、その積載能力を活かして輸送艦としても酷使され、苦しい戦線を支え続けたのであります。

私もこれらの活躍から「世界一の水上機・水上機母艦使いは帝国海軍」との信念になんの疑いも持たなかったんですけど、ちょっと調べてみて「アメ公の水上機もなかなかやるじゃん」ということを思い知らされたのであります。ただし、飛行艇・PBYカタリナばっかしですが。

PBYカタリナ飛行艇の着水シーン

PBYカタリナ飛行艇の着水シーン

アメリカ海軍はその活躍に見合う水上機母艦をどのように整備していたんでしょうか。

やっぱりアメ公、隻数が多い!

アメリカ海軍は大日本帝国海軍のように専用の水上機母艦を建造する事はほとんどありませんでした。と言っても水上機とその支援を軽視していたわけではなく、大日本帝国海軍的に言えば「特設水上機母艦」つまり他の艦船から改造して転用していたのです。
その数がアメ公らしくてビックリ、なんですけど。

アメリカ海軍で初めての水上機母艦は「ライト(USS Wright AV-1)」で、建造中の輸送船を買い取って改造したもの。排水量11500トン・15.3ノット・水上機12機搭載可能。艦名のライトはライト兄弟の「ライト」だそうです。

USS初の水上機母艦ライト

アメリカ海軍初の水上機母艦ライト

もっと有名なのはアメリカ海軍で初めての航空母艦(給炭艦から改造)なのに再改造されちゃった水上機母艦「ラングレー(USS Langley AV-3)」。11500トン・15ノット。

水上機母艦ラングレー

水上機母艦ラングレー

「ラングレー」はオーストラリアから蘭領東インドへカーチスP40戦闘機を輸送中、高雄航空隊の一式陸攻に撃沈されています(実際には航行不能にしてやった後、米軍駆逐艦による処分ですが)。

ラングレーの最後

ラングレーの最後

この他、我が軍にとっては痛恨の働きをしてくれる水上機母艦「カーチス(USS Curtiss AV-4)」など、比較的大型の水上機母艦が計18隻もありました。これだけで我が海軍の正規・特設含めた水上機母艦より多いんですが。

水上機母艦カーチス

水上機母艦「カーチス」

アメリカ海軍は小さな水上機母艦も駆逐艦などから改造して整備しています。浅海域などでの水上機支援を考えると小型水上機母艦は大変合理的ですからね。アメリカ海軍はコチラも改造で整備をすすめました。

AVPと言う、汎用艦船から改造したフネが50隻ほど。AVDと呼ばれる駆逐艦からの改造艦が14隻。大型も合わせると実に80隻ほどの「水上機母艦」が建造されているのです。

もちろんアメリカ海軍は大西洋と太平洋の「両洋海軍」ですから、我が海軍より大規模にならざるを得ないのではありますが、80隻ですよ、80隻。水上機母艦が大小合わせて80隻。
これだけ見ても、我が国が(まだ)真正面から戦ってはいけない相手ではありました。

ただ、便宜的に「水上機母艦」と呼んでいますが、我が海軍の水上機母艦とは違って恒常的に艦上に水上機を搭載することは考慮していない艦が殆どだと思います。
アメリカ海軍の水上機母艦は「seaplane tender」と呼ばれていますので、「水上機(に対する)補給艦」であって、我が海軍のそれとは少し性格が違う、とも言えるのです。

大型の水上機母艦は2個飛行隊(24機)の哨戒用水上機(多くの場合PBYカタリナ飛行艇)を運用することができました。小型の水上機母艦でも1個飛行隊を支援可能だったのです。

ミッドウェイの敗因も

この大量の水上機母艦たちは、大東亜戦争でどのような活躍を見せたんでしょうか?日本語版のWikiで調べても出てこないんですが、個艦で検索すると英語版なら活動がちょっとだけ判ります。
それに我が軍側から見た大東亜戦争の各海戦の動きを重ねて、代表的なモノを紹介申し上げましょう。

まずは「タンジール」(USS Tangier AV-8)。この艦は大型の方なんです。「タンジール」はPBY哨戒飛行艇12機の部隊を支援してニューカレドニアに進出。珊瑚海東部の索敵にあたり、珊瑚海海戦での「米海軍大健闘」に貢献しています。

上機母艦タンジール

水上機母艦「タンジール」

 続いて駆逐艦改造の小型水上機母艦「バラード(USS Ballard AVD-10)」と「ソーントン(USS Thornton AVD-11)」。この2隻はミッドウェー海戦の直前に、フレンチフリゲート礁に展開して飛行艇による航空哨戒を実施しています。
水上機母艦バラード

水上機母艦「バラード」

帝国海軍はフレンチフリゲート礁を中継点とし、二式大艇によってハワイ真珠湾を偵察(第二次K作戦)し、アメリカ空母が在泊していることをミッドウェー攻略作戦の実施条件としていました。

水上機母艦ソーントン

水上機母艦「ソーントン」

ところが「バラード」と「ソーントン」の両艦がフレンチフリゲート礁にいたために燃料補給用の潜水艦(伊121と伊123)は浮上できず、第二次K作戦は実施できませんでした。

伊21(121)

伊121
(伊121は伊21からの名称変更艦)

帝国海軍はこの齟齬に対して何らの対策を取るでもなく、漫然とミッドウェー海戦にのぞみ、大敗北を喫することになるのは皆さまご存じの通りです。

天王山はソロモン

大東亜戦争の帰趨を決めたのは、良く言われるミッドウェイでの4空母喪失よりも、その直後のソロモン海での死闘による航空機とベテラン搭乗員の消耗だというのが電脳大本営の見方であります。

この時も、アメリカは水上機母艦を投入しています。大型艦「カーチス(USS Curtiss AV-4)」と小型の「マッキノー」(USS Mackinac AVP-13)の他に数隻(調べても艦名が判りません)が、ヌーメア・エスピリッツサント・サンタクルーズの諸基地を転々と移動して哨戒作戦を支援しています。

水上機母艦マッキノー

水上機母艦「マッキノー」

特に「マッキノー」はガダルカナル島に対する反攻の前に、マライタ島(ガダルカナル島の北東)に9機のPBY飛行艇とともに進出しています。これがアメリカ海軍がソロモン諸島に展開した最初の軍艦です。
「マッキノー」はガダルカナル北西部の哨戒に従事し、何度も我が輸送船団を発見することになるのであります。さらに「マッキノー」は第2次ソロモン海戦でもサンタクルーズ諸島のヌデニ島から哨戒任務を行っています。

帝国海軍も、ヌデニ島の水上機母艦に対して2回に渡って潜水艦を派遣して艦砲射撃を実施させ「マッキノー」は前述の「バラード」とともに反撃したようです。

 1942年10月には南太平洋海戦が生起しますが、この時も「カーチス」と「マッキノー」の大小コンビが活躍しやがるのです。

2隻はエスピリッツサントに碇泊して32機のPBYカタリナ飛行艇を操ったのでした。
この時PBYはレーダーを装備して夜間偵察を行い、日本艦隊を先に発見したのですが、我が艦隊が冷静的確に対応して勝敗はつかなかった、と言えるでしょう。

戦争終盤も

1943(昭和18)年に入ると戦況はいよいよ傾きます。日本の水上機母艦は殆どが戦没するか空母へと改造されてしまいます。水上機を支え続けたのは特設水上機母艦だったのですが、それも運送艦として使われることが多くなっていきました。

真珠湾で対空戦闘中の水上機母艦カーチス

真珠湾で対空戦闘中の「カーチス」

それに対してアメリカの水上機母艦たちは圧倒的な制海空権に守られて常に前線のすぐ後ろをチョロチョロするのであります。

ギルバート・マーシャル・マリアナ侵攻、フィリピン奪還作戦と言った要所要所で、いつも1~3隻の水上機母艦が戦列に加わっているのです。沖縄戦ともなると水上機(カタリナ飛行艇)は哨戒任務を解かれ、損害を受けて不時着したパイロットの救援任務をメインにするようになります。

米海軍の「水上機母艦」は旧型駆逐艦からの改装が多いので、2000トンくらい、とても搭乗員の休養スペースが取れる大きさではありません。
それでも水上機をうまく運用できたのは、圧倒的な戦力に支えられた面が大きいと思います。

ただ、それだけでしょうか?国力が違う、と言えばそれまでかも知れませんが、私には「どれだけ搭乗員を大事にするか」ということが大きいと思えてなりません。
水上機母艦に休養スペースを作って前線に張り付きっぱなしの搭乗員と、水上機母艦に休養スペースは無いけれど、ちゃんとローテーションで本国に帰る搭乗員。

芙蓉部隊前二列目中央無帽が美濃部

芙蓉部隊勢ぞろい
前から二列目の中央無帽の人が美濃部正隊長

なお大日本帝国海軍の水偵乗り達は、ベテランパイロットとして最後の最後まで生き延び「芙蓉部隊」などに結集してアメ公に一矢報いた事も書いておかねばなりませんね。
芙蓉部隊以外で意外に知られていないヒーローのお話はコチラ

米海軍の水上機母艦たちは大日本帝国のように第一線に出ることはありませんでしたが、貢献度は日本海軍の水上機母艦部隊にけっして劣らなかったと言っても良いのではないでしょうか。

悔しいけれど、活躍は活躍としてちゃんと認め、哨戒・索敵の重要性を改めて認識しておきましょう。

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