ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃‐第一次世界大戦下の『バトル・オブ・ブリテン』-第2章:緒戦の凱歌 1915 後編

加筆・修正の上、遂に書籍化!

 

第2章:緒戦の凱歌 1915 後編

 

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皇帝陛下が、ロンドン空爆を裁可された-その知らせはドイツ陸海軍の飛行船部隊将兵に、熱狂をもって受け入れられました。間もなく政府が英国に対して作戦の開始を通達すると、ドイツ国民の間に一大センセーションが巻き起こります。

「飛べ、ツェッペリン!英国を業火で焼き尽くさん」

国中の子供たちが謳っていたまさにその時、飛躍的な進歩を遂げた最新鋭艦が続々と完成、臨戦態勢に入りつつありました。ツェッペリンP級の登場です。

《英国へ向かうツェッペリン艦隊を描いた絵葉書》

 

硬式飛行船黎明期からツェッペリン伯と苦楽を共に続けてきた天才技師、ルートビッヒ・デュールが、またしても大仕事をやってのけたのでした。

P級の全長は弩級戦艦に匹敵する163m、体積は32,930㎥。210馬力の6気筒マイバッハエンジンを4基搭載、最高時速は時速96キロ、飛行高度は3,500メートルに達しました。括目すべきは、2トンもの爆弾を搭載して英国まで飛ぶことが出来たことで(M級は0.5トン)、ここに英独航空戦におけるドイツ側の優位は決定的となりました。同艦級は1915年の間だけで20隻が建造され、海軍と陸軍にそれぞれ10隻ずつが受領されています。

分類 初飛行 全長(m) 直径(m) 体積(㎥) エンジン スピード(㎞/h)
LZ1 実験船 1900年7月 128.0 11.7 11,300 15馬力2基 27
LZ3 実験船 1906年10月 126.2 11.7 11,430 85馬力2基 40
LZ4 実験船 1908年6月 136.0 13.0 15,000 105馬力2基 48
LZ10「シュワーベン」 旅客船 1911年5月 140.0 14.0 17,800 145馬力3基 77
LZ14(H級) 戦闘艦 1912年7月 142.0 14.8 19,500 180馬力3基 76
LZ24(M級) 戦闘艦 1914年5月 158.0 14.8 22,500 210馬力3基 83
LZ38(P級) 戦闘艦 1915年4月 163.5 18.7 32,920 210馬力4基 92

《P級の諸元》

《P級1番艦 LZ38》

*1915年4月3日初飛行。陸軍に所属。

《P級2番艦 LZ40》

*1915年5月30日初飛行。海軍に所属(海軍名L10)。

《P級のブリッジ》

*初めて密閉式の構造が採用され、居住性が格段に向上した。

 

P級の出色の性能に満足したドイツ陸海軍上層部は、厳重な防空体制が敷かれているであろうロンドンへの空爆に、本艦級を投入することを決定します。

かくて、1915年5月31日、エーリッヒ・リナルツ艦長麾下のLZ38(P級1番艦)は、大英帝国の首都を目指し、ブリュッセル近郊のエベレ基地を出撃したのでした。

午後9時、カレー上空を通過してドーバー海峡に侵入した同艦は、間もなく前方にブリテン島を捉えます。その後、ロンドンまでの途上で幾度か地上砲火を浴びますが、高高度を飛ぶLZ38には何らのダメージもありませんでした。午後10時過ぎ、首都の北東に占位した同艦は、風に乗り音もなく目標へと接近していきます。

本国政府が既に作戦開始を宣言しており、航海中に地上砲火を受けたことを考えると、英軍は総力を挙げてLZ38の襲来を待ち構えていることが予想されました。それでもリナルツ艦長とその部下たちは、世界最大級のメトロポリスへ向けて、艦を飛ばし続けたのです。行く手にあるのは、勝利の栄光か、あるいは死か。今はまだ、知る由もありません。

《リナルツ艦長とLZ38の搭乗員》

*中央左のやや小柄なゴーグルをつけた人物が艦長

 

以下、リナルツ艦長の手記(の英訳)から引用します。

「美しい夜だった。星は輝き、和やかな風が吹いていた。我々の無慈悲な任務には、およそ似つかわしくない夜だ。…テムズの河口を越え、艦は駆ける。…きらめく川面を伝い、我らは首都へとまっすぐ進んだ。20分後、ロンドン上空に辿り着いた。眼下には、巨大な都市が広がり、横たわっていた。私はこの街を良く知っている。5年前、数か月をここで過ごしたことがあるのだ。灯火管制は殆ど行われていないように見えた。幾つものランドマークが目に入る。セントポール大聖堂、国会議事堂、そしてバッキンガム宮殿。それらは月明かりの下でまどろんでいる。今にも叩き起こされようなどとは、つゆ知らずに。懐中時計に目を走らせる。あと10分で午後11時だ。高度計は3,000mを示している。身を切るような寒さだ。コートのボタンを閉じると同時に、偉大で強力な国家の心臓部に、最初の一撃を加える覚悟を決めた。」

《LZ38のブリッジ 1915年5月31日夜、ロンドン直上》

 

「私の指は一つのボタンに添えられていた。それは、爆撃装置を電気力で起動するものだ。そして、私はそれを押した。」

《空爆下のロンドン》

*ただし1916年の写真

 

「美しい和音を奏でるエンジンの歌声を頭上に聴きながら、私たちは待った。まるで何分も経ったかのように感じられた。そして、建物が粉砕される爆音が轟いた。遥かな高空を飛ぶ我々には、地上で地獄の責め苦を受ける人々の魂の叫びはかすんでしまい、幻想のように感じられた。

再びボタンを押す。紅の閃光が無数に連なり、炎が吹き上がる。…次から次へと、30秒ごとに、投下された爆弾が唸り声をあげて炸裂する。…私の傍らでは、副長が爆撃の効果を注意深く確認し、航海図面と格闘している。

突如として、闇の底から、鋭い剣のような光の筋が幾本も空へと突き出される。そのうちの一つに、我々のブリッジは捕捉された。たちまち、他の光も空を横切って追ってくる。ブリッジの内部は、昼間の陽光の下にいるときよりも明るくなった」

《サーチライトに照らしだされるツェッペリン》

 

「空中の大捕り物が始まった。考え得る航法上のトリックを駆使して、私はサーチライトから逃れようとあらゆる手を尽くした。

遂に対空砲火が吠え始めた。周囲で砲弾が金属音を響かせる。…我々はロンドン上空に一時間留まっていた。間もなく、艦はサーチライトに背を向け、針路を東へとった。前方に海が見えてくる。洋上に浮かぶ銀色の月の光が、我々を家路へ導いてくれた。」

《LZ38の爆撃経路》

*都心の東側外郭部にダメージを与えた

 

この攻撃で、街は阿鼻叫喚の巷となりました。あるロンドン市民の男性が後年述懐したところでは、初めの内、人々は何が起きているか分かっていなかったといいます。「住民は窓を開け放ち、驚愕すべき光景をただ眺めていた。通りは至る所で炎上していた。炎は高さ6メートルにも達していた。空は朱に染められていた。」

 

別の男性は、ベッドの中にいたところを、凄まじい爆風で叩き起こされました。「燃えてるぞ!」「ドイツ野郎が来やがった!」という叫び声を耳にした彼は、急いで子供たちを地下室に避難させた後、通りの様子を見に外へ出ると、あろうことか隣家が炎上していたのです。一発の焼夷弾が屋根を突き破ってその家の子供たちの寝室を火の海に変えていました。父親は、体を焼かれながら5人の子供たちを助けようと必死に闘っていました。近所の住民たちの協力で、なんとか4人を救いだし、病院へ運ぶことが出来ましたが、残る一人は-父親は、誰かが助けてくれたのだと信じていましたが-ベッドの下で焼け焦げた遺体となって後日発見されました。まだ3歳の女の子でした。

《イギリスの戦争画》

*「ツェッペリンの爆撃後に-『でも父さん、母さんは何にも悪い事してないのに!』」

 

LZ38の攻撃により、ロンドン市民7名が死亡、35名が負傷し、物的損害額は18,600ポンド(現代の日本円で10億円相当)に達しました。たった1回の首都空襲で、それまでに行われた地方都市に対する合計6回の空襲に匹敵する物的損害を与えたのです。

また、英国民への心理的ダメージも、極めて大きなものがありました。

《LZ38の空爆により破壊された建物》

《ロンドン初空襲を伝える新聞》

*見出しには「ツェッペリン、ロンドン郊外を攻撃。多数の火災が報告されるも、飛行船とは必ずしも関連せず」の文字が躍る。「郊外」や「必ずしも関連せず」という表現に、英国側の焦りが滲む。

 

何より、自国の防空システムの無力さが改めて露呈されたことで、大英帝国の面目は失墜しました。

複数の高射砲陣地が首都へ向かうLZ38を発見し、発砲していたにもかかわらず、ロンドン市民には何らの警報も発されていませんでした。結果、同艦の攻撃は完全な奇襲となり、市民は無防備なまま寝込みを襲われたのです。

 

防空部隊は、何の役にも立ちませんでした。

帝都周辺に配置されていた高射砲は、僅か16門。このうち半数は有効射高が1,000mの1ポンドポンポン砲で、3,000m以上を飛行するツェッペリンに対しては全くの無力だったのです。しかもこの砲は膅発を引き起こしやすく、英軍将兵からは「無力というよりは寧ろ危険(味方にとって)」と見なされていました。

《1ポンドポンポン砲》

 

その他は、野砲を改装した急ごしらえの高射砲で、中にはツェッペリンの飛行高度まで砲弾を打ち出せるものもあったようですが、有効な抑止力にはなり得ませんでした。なぜか。

その最たる理由は射撃管制技術の未熟さにありました。射出された砲弾がツェッペリンの飛ぶ3,000mに到達するには、約15秒かかります。ツェッペリンの最高速度は約100㎞/hなので、この間だけでも約400mも移動してしまいます。従って、敵に打撃を与えるには、その速度と針路から未来位置を正確に予測し、まさしくその位置で砲弾が炸裂するよう、砲身の向きと角度、時限信管起動までの時間を逆算できなくてはなりません。ちなみに、斜め上に打ち出された砲弾は、まっすぐ飛ぶのではなく、重力の影響でまさしく「放物線」の弾道を描くので、その補正もしてやる必要があります。

防空部隊の将兵は天才数学者の集まりではありませんから、もちろんそんな芸当は期待出来ません。いわんや実戦中においてをや。結局、1915年の時点では、目測による当て推量で発砲しており、(まぐれ当たりを除いては)ドイツの飛行船乗りに心理的圧迫を与える以上の効果は期待できませんでした。現在のMDにも同様の議論が聞かれますが、この時代も上記の理由から根強い「高射砲無用論」があったようです。

後に英軍は不屈のジョンブル魂を発揮し、初歩的な射撃管制装置を開発してこの問題を見事に克服するのですが、それはまだまだ先の話。

 

高射砲部隊の将兵同様、邀撃戦闘機隊の操縦士たちも忸怩たる思いをしていました。

英国本土爆撃が開始された1915年1月の時点で本土に配置された邀撃戦闘機は僅か40機。しかもその全てがツェッペリンの飛行高度に及ばない旧式機でした。
この年の夏に配備が開始された最新鋭機、B.E.2も、お世辞にも名機とは言えません。最高速度116㎞/h(ツェッペリンP級は96㎞/h)、上昇限度3,000m(同3,500m)。しかも上昇限度に達するまで46分かかるという代物。このスペックで何をどうしろと言うのか。

《B.E.2》

*機体に罪はない。備えを怠った用兵サイドの責任。

 

その上、この時期はまだ夜間飛行の技術が確立されていません。個々のパイロットの度胸と技量と経験に頼って、英国邀撃戦闘機隊は「戦って」いたのです。

実際、LZ38がロンドンに襲来した際には、15機が勇躍発進しました。漆黒の闇の中、己の腕と燃えるような使命感だけを恃みに、操縦士たちは戦闘機を飛ばしたのです。

しかし、その結末は無惨でした。LZ38を視認出来たのは1機のみ。その1機も、エンジントラブルのため、為すすべなく引き離されてしまいました。歯噛みする想いで基地に引き返す操縦士たちの前に、「夜間着陸」という試練が立ちはだかります。結局、2機が失敗してスクラップとなり、1名が命を落としました。

一方、LZ38は英戦闘機隊の命懸けの出撃を感知すらしていません。一体、これを「戦い」と呼ぶことが出来ましょうか?

 

しかし、LZ38の空爆は、始まりに過ぎません。陸軍に後れを取ったシュトラッサーは配下の飛行船団をロンドンに向け繰り出します。天候不順による何度かの作戦中止の後、LZ40(海軍名L10)が遂にロンドン上空に侵入します。1915年、8月17日のことでした。

《ロンドン上空のLZ40》

 

同艦は主にロンドン郊外北部を猛爆、10名を死亡させました。負傷者は48人、物理的損失は3万ポンド(現在の日本円で約17億円)。

 

続く9月7日から8日の深夜にかけて、今度は陸軍の飛行船2隻がロンドン郊外南部に襲来、18人の命を奪い、28名を傷つけます。損失金額は9,600ポンド(約5.5億円)。

《9月7日の空爆》

 

相次ぐロンドン空襲に為すすべのない英国の軍民ですが、想像を絶する災厄がその次の夜に迫っているとは、恐らく誰も考えていなかったことでしょう。

それも、たった1隻のツェッペリン艦によってそれがもたらされようとは。

 

1915年9月8日午後2時、北海沿岸のハーゲ基地から1隻の艦が飛び立ちます。艦名はL13(LZ45)。不吉ともとれる名前のこのフネの指揮を執るのは、ハインリヒ・マティ艦長。英国の空へも幾度も出撃した経験豊かな名指揮官です。

《ハインリヒ・マティ艦長》

《L13(LZ45)》

《L13の搭乗員》

 

同艦は他の基地から発進したL9、L11、L14と合流すると、堂々たる空中艦隊を編成してドーバー海峡を押し渡ります。

《ドーバー海峡上空のドイツ空中艦隊》

*L11より撮影

 

午後8時半、艦隊は英国沿岸に到着しますが、L11とL14 はエンジントラブルの為に引き返すこととなり、L9は爆薬や毒ガスの原料となるベンゼンを生産する英国北部の化学工場爆撃のために編隊を離れます。(同艦は目標のプラントを破壊し、多数の工員を殺害したのみならず、隣接するTNT火薬貯蔵庫まで吹き飛ばし、英国に甚大な損害を与えました)

ここに、L13は単艦でロンドンを爆撃することとなったのです。

 

英軍の目を欺くため、同艦はロンドンから北に100キロ離れたケンブリッジ上空に回り込みました。ここまで来れば、航海図もコンパスも必要ありません。高高度を飛ぶマティ以下L13の搭乗員たちの目には、地平線の彼方にあるメトロポリスが放つ眩い光の束がはっきりと映っていたからです。

 

午後11時40分、艦はロンドンの都心直上に侵入します。開戦前の1909年、この都市に1週間滞在した経験のあるマティ艦長は、自艦の位置を簡単に見極めることが出来ました。「平時のように輝くインナーサークルによって、私はリージェント・パークをはっきりと見出すことが出来た」、彼は後にそう記しています。

必死になって目標の位置を特定しようと焦る部下たちを前に、彼は不敵な笑みを浮かべ、こう言い放ちました。「ここには素晴らしい獲物が幾らでもあるぞ。貴様らは根性一つで私に付いて来い!」

 

第一弾はロンドン大学から200mの地点に命中します。歴史的襲撃行の幕開けでした。L13は無数の爆弾をばら撒きながら都心上空を進んでいきます。1発は大英博物館に隣接するブロックに着弾しました。(皇帝陛下から「文化的価値の高い建造物はぶっ壊すな」って厳命が下りてるんですが、良いんですかね?)

《L13の爆撃経路》

*これは、アカンやつや

 

日付が9月9日に変わって間もなく、艦はシティーの真上に差し掛かります。シティー!言うまでもなく、英国が誇る世界的金融街です。名だたる銀行や証券会社・保険会社の本店が軒を連ねる其処は、広大な植民地からもたらされた富や、外国との貿易で生みだされる利益、海外への投資から得られる利子や配当などが莫大な額のマネーとなって還流する英国経済の心臓部に他なりません。

工業生産力で米独に敗れた大英帝国が依然として世界の覇者であり続けられるのも、このグローバルな集金システムがあってこそ。

L13は今まさにそのド真ん中を単艦で暴れまわっているのです。

《L13から捉えられた爆撃下のシティー》

*右上の十字の形をした建物はセントポール大聖堂。比較的最近ではチャールズ皇太子とダイアナ元妃が結婚式を挙げたことでも知られますね。

 

マティの最終目標はシティーの東端にある中央銀行(イングランド銀行)に巨大な300㎏爆弾を叩き込む事でした。眼下の街区を粉砕しつつ、彼の艦はシティーを横切り、中央銀行へとにじり寄っていきます。

そうはさせじと、ロンドンに配置された26門の高射砲全てが応戦を開始しました。

マティは安全のため高度を2,600mから3,400mへと上昇させますが、結果、L13は薄い雲に頭から突っ込んでしまいます。これにより、サーチライトと対空射撃からは逃れることが出来たのですが、引き換えに視界を失ってしまう羽目に。やむを得ず、マティはイングランド銀行上空と予想される地点で巨弾を放ちますが、古い教会の裏庭に大穴を穿っただけで終わります。しかし、その破壊力は敵味方を驚愕させるにふさわしいものでした。

かくして積み込んだ2トン近い爆弾の殆どを投下したL13は北方に転針し、行きがけの駄賃とばかりに、主要な鉄道駅の一つであるリバプール駅に残った爆弾を叩きこむと、意気揚々とドイツへ引き上げたのでした。

 

この攻撃により、市民22名が死亡、87名が負傷し、物質的損害額は驚くなかれ53万ポンド(約303億円)。邀撃戦闘機隊は6機が発進するも、どの機もL13に接敵することすら叶わず、着陸時に1機が失われ操縦士は命を落としました。

かくして、9月9日は大英帝国にとって悪夢の一夜となったのでした。

《破壊されたロンドン名物の市バス》

*焼夷弾1発が命中、運転手と乗客8名が死亡

《損害を受けたロンドン中心街》

 

この夜の空襲を、あるアメリカ人記者は次のように綴っています。

「星が輝く秋の夜空に、細長いツェッペリンが浮かんでいた。それはくすんで黄色く見えた。実りの時期の月と同じ色だ。市内各所の屋上に設置されたサーチライトから長くて白い指が伸び、死の使いの躰を撫でまわしていた。爆撃の轟音が街を揺るがす。ツェッペリンの爆弾だ。投下され、殺し、焼き尽くしている。対空砲火の音が、手を伸ばせば届くような場所から、微かに聞こえてくる。高射砲が榴散弾を空に射出しているのだ。その音は、ツェッペリンの爆撃に比べれば、ずっとちっぽけに感じられた。」

また、電話交換局に勤務していた男性は次のような回想を遺しました。

「火柱が立て続けに私めがけて降り注いでくる…私はそんな感覚にとらわれました。でも、現実のこととして受け止めることは出来ませんでした。爆弾は私のいる場所から数メートルしか離れていないレストランに命中し、続いて城壁内に降り注ぎ、街路を焼きました。空を見上げると、サーチライトの明かりがツェッペリンの全身を鮮明に捉えました。それは美しく、そして身の毛もよだつような光景でした。」

 

ロンドン市民は感傷に浸る暇も、喪に服す猶予すら与えられませんでした。僅か1か月後の10月13日深夜、ドイツ海軍に所属する3隻のツェッペリン艦がまたも首都上空に襲来したのです。

そのうちの1隻、ヨアヒム・ブライトハウプト艦長座乗するL15(LZ48)は都心直上に侵入することに成功します。

《L15の爆撃経路》

 

同艦は国会議事堂の真上を威圧するように飛び去ると、チャリング・クロス駅(日本ではシャーロック・ホームズ・シリーズに登場することで有名ですね)近辺で爆撃を開始しました。

 

「彼を迎えた奇妙に魅力的な光景を彼はあとでこう記している。『眼下には、ほとんど暗やみに近いロンドンが横たわっている。眼前では、ねらい定めた砲弾の弾幕が広範囲に広がり、それがサーチライトに照らし出されて鮮やかに輝いていた。この榴散弾のさく裂や高射砲の響き、それらは忘れがたい光景を繰り広げていた』」

(「マンモス飛行船の時代」ダグラス・ボッティング著、 筒井 正明・北山 克彦 訳、1981年)

 

地上では、大陸戦線から休暇で帰国した陸軍将校がL15を見上げていました。

「頭上右側に、巨大なツェッペリンがいた。それはサーチライトで照らしだされながら、ゆっくりと航行していた。威厳に溢れた、心奪われる眺めだった。私は呆気にとられ、ストランド街に立ち尽くしていた。あまりに幻想的で、動くことすらできなくなっていた。続いて、恐ろしい爆発音が次から次へと響き渡った。」

 

同艦は、手始めに王立裁判所に数発の爆弾を叩き込んでこれを血祭りに挙げると、マティ同様、シティーに痛打を浴びせつつ、中央銀行を目指しました。

結局、最終目標は逸したものの、L15はシティーに2トンの爆弾を投下します。

2隻の僚艦はロンドン郊外を爆撃、トータルの損害は、47名が死亡、102名が負傷、物的損失は8万ポンド(約46億円)に上りました。

《王立裁判所(Royal Courts of Justice)》

 

《破壊されたシティーの銀行》

《ロンドン郊外の惨状》

《サーチライトに捉えられたL15》

 

爆撃から帰還した飛行船を眺める子供たち

 

この日の爆撃が、1915年のロンドン攻撃の締めくくりとなりました。天候が不順となる冬期は、作戦を控えることをドイツ軍上層部は決定していたからです。
この年、英国への空爆は20回を数え(うちロンドンは5回)、181名が死亡、455名が負傷し、物質的損失は80万ポンド(現在の日本円で458億円)に上りました。
一連の空爆は英国市民に深い心理的ダメージを与えています。作家のD.H.ローレンスは知人の女性に宛てた手紙に次のように記しました。
「私たちは頭上にツェッペリンを見ました。それは真上にあり、光る雲に囲まれていて、遥かな高みで明るく輝く黄金の指のように見えました。…そして、すぐ近くの地面で閃光が立て続けにひらめき、続いて耳をつんざく轟音が響いたのです。それはまるで、ミルトンの詩に描かれる天界の神々の闘いのようでした。…私はあの時のことを忘れることは出来ないでしょう。私にとって月はもはや夜空の女王ではなく、星々はちりばめられた光ではありません。ツェッペリンこそが天の頂きに君臨し、月の様に金色に輝きながら、空を支配しているのです。ちりばめられた光は、爆発する無数の爆弾なのです。」

一方、1915年に英国爆撃に出撃したのべ49隻のツェッペリンのうち、戦闘で喪われたものは2隻を数えるのみ。
(6月に陸軍のLZ37がカレー上空を低高度で飛行していたところを英軍戦闘機に捕捉され撃墜、続いて8月に海軍のL12が対空砲火で損傷し海上に不時着)
かくして、ドイツ空中艦隊は緒戦において一方的な勝利を収めたのです。

しかし、それは飽くまで戦術的なレベルにおいてであって、英国の生産力を破壊するには遥かに至らず、国民の士気を沮喪せしめることもできなかったという点では、「戦略爆撃」としては到底成功とは言えませんでした。

ドイツ軍指導部もこのことは認識しており、1916年の戦いには、より優れた飛行船を大量に投入すべく準備を進めていきます。

 

方や、一連の爆撃で国威を大きく傷つけられた大英帝国は、国を挙げてツェッペリン撃退に取り組むことになります。

とりわけ、帝都と本土の防空を司る英国海軍の屈辱は一方ならぬものがありました。彼らは、チャーチル海軍卿の強いリーダーシップのもとに、迎撃体制の飛躍的充実を成し遂げるのです。

 

いまや、1916年の戦闘が、これまで以上に凄惨な様相を帯びることは必至となりました。それはドイツと英国の生存を賭けた戦いであると同時に、飛行船と飛行機のどちらが空の覇者となるかを決める戦いとなるでしょう。

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