小型巡洋艦ケーニヒス・ブルクのねばり強き戦い その1

ケーニヒスブルク艦容とエンブレム

巡洋艦って言う艦種は不思議な魅力に溢れています。
戦艦より速く、駆逐艦より強武装でその上スマート、なんと言ってもそのネーミング。

巡洋艦はその名のとおり、「単艦で世界の大洋を巡り」世界中に築いた植民地を警備するフネの意味なのです。

ケーニヒス・ブルクの生い立ち

「巡洋艦」はその任務から航続距離・航洋性や居住性にも十分な考慮が払われ、持ち味の快速から通商破壊にも最適でした。
これをもっとも活用したのがWW1のドイツ帝国海軍でした。

その中の小型巡洋艦(まだ軽巡洋艦や重巡洋艦というカテゴリーはありません)「ケーニヒス・ブルク」が本稿の主人公です。
その概要を見てみましょう。

ドイツ軽巡ケーニヒスブルク(初代)

ドイツ小型巡洋艦ケーニヒスブルク(2代)

小型巡洋艦ケーニヒス・ブルクはネームシップで、同型艦はケーニヒスク・ブルク、シュトゥットガルト、ニュルンブルク、シュテッティンの4隻。
ケーニヒス・ブルクの名前は独逸海軍では2代目に当たります。

1905年から建造にかかり、1907年から1908年にかけて完成しました。
個艦差が大きく、罐室の区画が違っていたり、最終艦のシュテッティンのみ直結タービンを採用したり。
過渡期の軍艦ですから、これは仕方のないところでしょう。

満載排水量3800トン、10.5cm(40口径)速射砲10門、5.2cm(55口径)単装速射砲8基、45cm水中魚雷発射管単装2門、24.1 ノット、航続距離は12ノットで5,750 海里 。

石炭を炊いてますので航続距離は短いのですが、これが後々ポイントになりますのでご記憶のほどを。

東アフリカへ

ドイツ政府は1914年3月、「ケーニヒスブルク」をドイツ帝国の植民地だった東アフリカ(いまのタンザニア)に駐留させることを決定し、同時にマックス・ルーフ (Max Looff)さんを艦長に任命しました。

乗り込みの水兵は志願を募ったようで(この辺りのシステムに詳しい方、ご教示頂けると幸いです)、希望者が殺到して優秀かつカラダの頑健な者を選び放題だったそうです。

第一次大戦の勃発前の1914年4月15日、ケーニヒスブルクは母港ウィルヘルムス・ハーフェンを出港、スエズ運河経由で独領東アフリカの首都ダルエスサラームに向かいました。

途中でイギリスのアデン総領事から食事の接待などを受けながら、6月上旬、ダルエスサラームのドックに入渠。

水兵たちが植民地の生活に慣れる間もなく、6月28日にはサラエボでフェルディナンド大公が暗殺され、戦争の恐れが出てきました。

ルーフ艦長は独領東アフリカの地勢的位置(紅海の出口を扼している)から、「イギリスとフランスは必ずケーニヒスブルクを狙ってくる」と読んでいました。

そのため7月中に艦内の木製家具を撤去し可燃性の塗料を剥がし、空きスペースを利用して武装を強化(詳細不明)、海戦に備えます。

英巡洋艦から逃げる

7月31日の早朝4時、ケーニヒスブルクはダルエスサラームを出港しましたが港から20キロも離れないうちに、英艦3隻と遭遇してしまいました。

3隻は前方3方向からケーニヒスブルクに向かってきます。
開戦前に港に戻して封鎖しようというつもりでしょう。

ルーフ艦長は停船を命じて策を練りました。

夏の早朝の風物詩・スコールが、英艦隊の一艦「ヒヤシンス」に向かって行くのが見えました。
ケーニヒスブルクは直ちにヒヤシンスの方向に突進。他の英艦もヒヤシンスに近寄ろうとしましたが、彼我の4艦すべてがスコールに入り、お互いの視認は不可能になってしまいました。

英国防護巡洋艦ハイアシンス(ヒヤシンス)

英国防護巡洋艦ハイアシンス(ヒヤシンス)

ルーフ艦長はこの隙に全速で南へ向かうように命令。
スコールが晴れると3隻の英艦の前からケーニヒスブルクの姿は見事に消えさっていました。

通商破壊戦へ

6日後。ケーニヒスブルクの石炭が尽きかける頃にイギリス参戦が知らされました。
ケーニヒスブルクは航海の途中で何隻かのドイツ商船と出合ったのですが、石炭に余裕がある船は無く、補給ができませんでした。

ケーニヒスブルクは自分専用の石炭船として行動している「ソマリ」との邂逅をめざして北に向きを変えました。

アデン海峡の近くで日本の商船に会いましたが中立船なので見逃し、次に宿敵イギリスの商船「シティ・オブ・マンチェスター」を発見、拿捕しました。

シティ・オブ・マンチェスターから石炭約400トンを奪い、更に石炭船「ソマリ」との邂逅にも成功。
ようやくケーニヒスブルクは石炭を満載することが出来たのです。

燃料にゆとりのデキたケーニヒスブルクはアデン沖を遊弋しましたが、敵国船籍の船は全く発見できません。

先の日本船が英当局に通報したため、この海域の商船の通行が禁止されていたのです。獲物が無くても石炭は減ります。

ケーニヒスブルクはなんども「ソマリ」のお世話になっています。

この間、ケーニヒスブルク自身は行動秘匿のために無線封止をしているのですが、独領東アフリカの首都・ダルエスサラームからの通信連絡もありませんでした。

戦争初日にイギリス艦船がダルエスサラームの無線中継所を砲撃、破壊してしまっていたのです。
このため、ケーニヒスブルクは敵の航海情報ナシで行動せざるを得なかったのです。

ケーニヒスブルクは東アフリカ沖に見切りをつけ、マダカスカル島に向かいフランス船を狙う事にしました。
8月29日、マジュンガに入港、一隻の艦船も発見できません。
しかも石炭不足となり、ソマリに遭遇できたたものの海が荒れ、石炭を積み込めませんでした。

そこで両艦は波浪を避けてルフィジ・デルタに向かうことにしました。

英巡撃沈、そして

ルフィジ・デルタというのはルフィジ川の三角州で、本流が多数の河川に別れてインド洋に注いでいるところです。

従来は遡行不可能とされていたデルタ地帯なのですが、ドイツはいくつかの深い水路を発見し、もし英艦が追って来たときの脱出ルートも開発していたのです。

9月3日、ケーニヒスブルクは河口を通過して川に入り、川岸のサラレというドイツ税関のある町に接岸しました。

これでダルエスサラームとも連絡が可能になると、9月19日にルーフ艦長はそこで重要なニュースを知ります。
英の小型巡洋艦「ペガサス」がボイラーの故障修理のため、ザンジバルに入港したとの情報です。

その日の午後、ケーニヒスブルクはルフィジ・デルタを出撃。

翌朝5時にザンジバル港に到着して港外を遊弋していた水先案内船を撃沈した上で港内に突入しました。

9000ヤード(8000m)から英巡ペガサスに射撃を開始。
20分後、ペガサスは白煙を上げて徐々に沈み始めました。

ケーニヒスブルク艦容とエンブレム

ケーニヒスブルク艦容とエンブレム

ルーフ艦長はこれを確認すると脱出、そのまま外洋へ出て通商破壊に戻るように命令しました。

ケーニヒス・ブルクの戦いはどのようになるのでしょうか?

小型巡洋艦ケーニヒス・ブルクのねばり強き戦い その2へ続きます。(現在工事中ですので、来週までお待ちのほどを)

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