信濃丸
1901年7月初旬、大英帝国カンブリア州のバーロー・イン・ファーネス市の港外に一隻の豪華客船が姿を現しました。
客船はゆっくりと、折からビッカース社の造船所桟橋で艤装中の大戦艦に横づけしました。
「三笠」とともに
この貨客船は東洋の島帝国「大日本帝国」の誇る新造船「信濃丸」であります。
「信濃丸」は日本郵船のシアトル航路用の貨客船として、イギリスはグラスゴーのデビット・ウィリアム・ヘンダーソン社で建造、1900年4月に竣工したモノ。
今回は本来予定されていたシアトル航路に投入される前の「特別任務」としてイギリスへ里帰りしたのです。
信濃丸の里帰りはコレで二度目でした。
まだ自国の商船隊を確立したとは言えない東洋の小さな島帝国が、わざわざ本来の任務を外してまで、新造の豪華客船をイギリスに行かせたのには、もちろん訳があります。
それは信濃丸が横付けした戦艦の廻航要員を送り届けること、でした。その戦艦とは大日本帝国が注文していた「三笠」です。信濃丸は三笠を遠路はるばる迎えに行ったのです。
三笠は御存じの通り、日露戦争の大殊勲艦であります。ところが、その後半生は苦難の連続でした。
日露戦争が終結し、まだ連合艦隊の旗艦であったときに弾薬庫の爆発で沈没(着底)。大正元(1920)年にも火薬庫で火災。
事故ばっかり起こしたせいか、老朽化してきたためか、第一次大戦がはじまると三笠は防寒設備を施されて「北方警備」に使われるようになります。二線級に格下げです。
二線級になっても、三笠にはなんだか不運の影が付きまといます。
多くの帝国の民間人と守備隊員が犠牲になった尼港事件では、砕氷艦「見島」とともに救援に駆け付けるのですが、海氷に阻まれて尼港に近寄ることが出来ず、引き返してしまいます。
その翌年にはウラジオストック港外で座礁、ウラジオの造船施設に入渠して修理してもらうという屈辱を味わいます。
そんなアフォなことを繰り返している間に、ワシントン海軍軍縮条約が結ばれて、大型艦の保有制限が掛かります。三笠や同型艦の「敷島」「朝日」は廃艦処分とされることになりました(敷島と朝日は武装を外して生き延びますが)。
そんな憂鬱な大正12年9月1日、関東大震災が発生したのです。
お得意の「北方」に居れば良いモノを、横須賀港岸壁に係留中だった三笠は岸壁に衝突して浸水が止められずに着底。
三笠はこのままで保存工事を進められ、大正14年に満潮を利用して曳船で今の位置に連れてこられたのです。
これに対して「三笠を英国まで迎えに行った」信濃丸は、そのすぐ後には仮装巡洋艦としてバルチック艦隊の接近を発見するという偉功を打ち立てたことは良く知られるところです。
「不運」も、ともに
ところが信濃丸、本務の商用ではあまり恵まれた存在じゃありませんでした。花形の太平洋航路に就航していた時間はわずか。
1913年には孫文が信濃丸で日本に亡命していますから、この時には神戸~基隆航路に「格下げ」になっていることが判ります。
1930年には日魯漁業に売却されて蟹工船に改装されてしまいます。客船であることも止めて、漁船になってしまったのです(漁船が客船より下、と私が思ってるワケではありませんからね)。
1932年、太平洋漁業に売却されて北洋漁業の母船に転身。この時の同僚船には超有名な「笠戸丸」も居ます。
この時点で船歴30年を越えてますから、まあ仕方ないっちゃ仕方ないし、日露って言う大戦争に駆り出されて、良く生き永らえたとも言えますが。
イギリスまで迎えに行ってあげた「三笠」が功成り名を遂げて「保存」っていう形で悠々自適の余生を送っているのに対して、信濃丸はおばあちゃんになっても、仕事を続けなければなりませんでした。
フネにとって、そのままの姿とはいえ陸上で保存されるのと、何時まで経ってもコキ使われるのと、どっちが運が良いのかは良く判りません。
判りませんが、信濃丸は三笠に合わせるように「昔は良かったけどなぁ」みたいな人生を送り続けます。
大東亜戦争が勃発すると客船(って言うか人を運ぶフネ)として復活。
輸送船として活躍するのですが、マンガ家の水木しげるが
「触ると船体の鉄板が欠け落ちる」
と証言するほどに老朽化していました。
「活躍」の真相
さて信濃丸が有名なのは、もちろん「敵艦見ユ」の電文を発したことにその理由があります。
この経緯はザッと書きますと、
『1904年5月27日午前2時45分、五島列島白瀬西方40海里の地点を哨戒中の信濃丸が左舷を同航する一隻の汽船を発見(両船は北東方向に航行)。
信濃丸はしばらくコレを観察したのですが、月が東にあり、汽船側が暗くなって判別困難のために、進路を変更して汽船の左舷に出ます。
さらに観察を続けると、汽船には兵装は見当たりません。「病院船ではないか?」との疑念を抱いた信濃丸艦長。
まさしくこの汽船はバルチック艦隊に随伴していた病院船「オリョール」であったのですが、艦長は停戦命令を発してオリョールを臨検しようとしました。
もし、ココで停船命令を出していたら、オリョールに日本艦が紛れ込んでいる!とバレてしまい、信濃丸はたちどころに沈められていたことでしょう。
しかし、信濃丸艦長は命令を口にする直前、自艦の左舷前方に十数隻の艦艇と数条の煤煙を見つけます。
信濃丸は汽船の左舷に回り込む行動で、バルチック艦隊の隊列の中に入り込んでしまっていたのです。
危うい所で敵艦隊に気づいた艦長は直ちに転舵して距離を取り、「敵艦隊見ゆ」を打電できたのでありました…』
という、間一髪のヒロイック・ストーリーが海軍公式の戦史となり、水野広徳という名文家によって「此一戦」に描かれるワケです。
「今や進むも敵、退くも敵、嚢中のネズミか、釜中の魚か、絶体絶命、一たび敵に認めらるれば万死あって一生無き…」
ってな調子でありますね。
ところが、ですね。「信濃丸の知られざる生涯」という本によりますと、この時に信濃丸の艦橋に成川揆艦長はいなかった、というのです。
当直として艦橋にいたのは角恒吉少尉。
この話の元ネタは文藝春秋の1930年5月号に、中佐になった角少尉が寄稿した文章だけなので、「一次史料無し、当事者の証言のみ」という、言わば怪しげな話ではあります。
ただ、信濃丸に関することは異様に興味のわく私めでありますので、ご容赦をお願いしたいところです。
何故、たかが少尉の角恒吉が艦橋にいたのか?
角少尉によれば
「自分は実は当直を上官の航海長・八戸三輪二郎海軍少佐に代わって務めていた」
ということです。
角少尉が山田虎雄中尉から当直を引き継いだ時は、すでに左舷に外国船と思われる汽船を認めていたそうです。
山田中尉は臨検まで考慮して停船信号を準備しており、その状態で角少尉に引継ぎを行います。
私たちは結果を知っていますから、「なんと暢気な」と思ってしまうのですが。
この当時、「予定戦場」の日本海にはかなりの外国船舶が入っていたようで、信濃丸はこの5月だけで6隻の外国船を臨検しており、その他にも多数の船舶を追跡して「無害を確認」しています。
つまり、哨戒活動中にもかかわらず「慣れ」が出てしまっていたのでしょう。その慣れ(油断)のままで角少尉は先方の汽船(病院船アリョール)から発光信号が送られてきた、と回顧しています。
この信号はロシア語で送られてきましたから、我が信号兵には読み取れず、アリョールは信号を送ることを止めてしまいます。
相手も油断
アリョールからの信号は、おそらく「列に戻れ」とか言ったものだったろう、と思われます。
バルチック艦隊は基本的に2列縦隊で、アリョールは右列ですから、自分の右舷にフネが居たら敵か、マトモに船列を組めない下手くそです。
信号を送っても返答がなければ、少なくとも艦隊司令部に連絡すべきでしょう。もう敵地に入ってるんですから。
角少尉の方はもっと酷くて、信号兵を「信号兵の癖に信号が読めない馬鹿者」とか怒鳴ったそうです。
やがて見張員から「前方に煙」と報告がありますが、角少尉は
「雲だろう、よく見ろ」
しかし、この時の見張員(野村一等水兵との記述あり)はシッカリ者だったようで、右舷を指さして
「いや、煙です。空一面の煙です!」
この頃になると、甲板上の水兵たちも異常事態に気づき、次々と角少尉に報告を入れ始めます。
「10隻や20隻の煙ではありません。」
ココに至ってようやく事態の重大さに気付いた角少尉。まず艦長室へ行って(自分で、というのが噴飯モノでありますが)艦長を起こし、ついで艦内各所に知らせるように指示。
本来の当直の八戸少佐・丸橋副長・黒川機関長らの幹部が次々と艦橋に姿を現す中、肝心の成川艦長はいっこうに現れず。角少尉が再度艦長室に行くと、歯磨きをしていた…
公認の戦史とはずいぶん違う情景でありますね。もちろん、統率の手法として
「リーダーがモッタイ付けて出てくる」
は大いにあり、であります。
箱根竹之下の合戦における足利尊氏とか、上田合戦(第一次)における真田昌幸とか、例をご存知の方はたくさんいらっしゃるでしょう。
でも、この場合はどうなんでしょうね。あまりにも信濃丸艦上がだらけ過ぎています。
角少尉に急き立てられた成川艦長が艦橋にその雄姿を現したとき、すでに信濃丸とオリョールの距離は1200メートルまで接近。
幾ら月明かりの下とは言っても、この距離だと敵艦の甲板上の水兵の姿もはっきりと分かった筈です。
余裕たっぷりの成川艦長も、さすがに慌てたのでしょうか?すぐに面舵を命じ、敵艦隊から脱出したのであります。
この時、角少尉は艦尾に軍艦旗が「上げっぱなし」になっていることに気づき、「軍艦旗を下ろして来い」と命じた、と書いています。
その後
信濃丸が何とか「敵艦見ユ」を打電できた経緯に関する異説を紹介させていただきました。
海軍は兵員の募集は「志願」に頼っていましたから、国民に人気が出るように、広報には十分に気を配っていたようです。
実際には角少尉の告白が実戦の様相であったとしても、ちょっとコレでは発表できませんね。あまりにもだらけ過ぎですですので。
まあ、だからと言って公式記録を「作文」しちゃうのはどうなんでしょうね?
いや、この件は作文と決まったワケではありませんけど、海軍にはこの手の誤魔化しがいっぱいあるからなぁ。
誤魔化しや作文がイカンのは、真の戦訓が汲み取られずに忘れられてしまうからです。
まあ、とりあえず信濃丸は哨戒の使命を立派に果たし、元帥さんに褒めてもらったのでした。
この画像は東郷平八郎がその殊勲に対して出した感状を絵葉書にしたものです。
『感状
假装巡洋艦信濃丸
明治三十八年五月中敵艦隊ノ北上ニ對シ連日連夜哨戒勤務ニ服シ同月二十七日佛曉早クモ敵艦隊ヲ發見シ其確實迅速ナル警報ハ聯合艦隊ノ作戰ヲ利セシコト少ナカラス其功績大ナリトス仍テ茲ニ感状ヲ授與スルモノナリ
明治三十八年六月二十日
聯合艦隊司令長官東郷平八郎』
「信濃丸」には戦争に引っ張り出される宿命がついて回るようで、大東亜戦争で太平洋に復帰を果たしますが、その頃にはもうボロボロの老朽船。
それでも兵員と物資を運び続け、敗戦の後は引揚げ船として使われ続けました。
信濃丸に平穏なときが訪れるのは、昭和26(1951)年のことであります。誕生から半世紀が過ぎていました。
人知れず日本を支え続けたフネは、その誕生に深く関わった記念艦「三笠」の近くの岸壁でひっそりと解体されてしまいました。
「三笠」を訪れて、先人の偉業に感謝の思いを捧げる方は多いのですが、そのうちどれほどの人が「信濃丸」を思い出してくださるでしょうか。