杉原千畝と老朽船「天草丸」

連盟よ、さらば

新たな御代、令和が幕を開けたばかりの2019年5月2日。遠く中東イスラエルの地で、一人の日本人が顕彰されることになりました。「再」顕彰であったためか、国内ではほとんど報道されていませんが、私は深く心を揺さぶられてしまいました。

リトアニアのカウナスって何処やねん

その日本人とは外交官・杉原千畝です。「今さら日本のシンドラーかよ」とか仰らずに(笑)
小さな記事でしたが(時事ですけど、これしか無いんだもん)引用しておきます。

【ベトシェメシュ(イスラエル)時事】イスラエル中部ベトシェメシュの中高一貫校で2日、第2次大戦中に「命のビザ」でユダヤ人数千人を救った外交官杉原千畝(1900~86年)を顕彰する植樹の式典が開かれた。今年2月、同地近郊に以前存在していた植林や記念碑が宅地造成工事の後、消失したことが時事通信の報道で明るみに出た。この問題は地元各メディアが大きく取り上げ、ショックを受けた教員の有志らが新たな植樹を企画した。この日はイスラエルでナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の犠牲者を追悼する特別な日。午前10時(日本時間午後4時)すぎ、全土で黙とうのサイレンが鳴らされた。中高生が通うブランコベイス学校(生徒約1300人)ではこの直後、生徒たちが見守る中、杉原のビザ発給で大虐殺から逃れたベール・ショールさん(91)や、在イスラエル日本大使館の大隅洋公使らがカシの木の植樹を行った。新たな記念碑も設置された。植樹を企画したガディ・ディムリ教諭(歴史)は「報道に衝撃を受け、教育上の観点からも行動しなければならないと思った。杉原千畝の話は心に刻まれており、今回の植樹は犯された過ちを正す最低限の行為にすぎない」と語った。

 

杉原千畝がリトアニアのカウナスと言う町にあった「日本領事館領事代理」に任命されたのは、昭和14年(1939年)でした。このカウナスって地に、前から我が国の領事館があったのか?って言うと、そうでも無いようでありまして。

なんとなく、ではありますが、大日本帝国の何らかの勢力?が難民対策のために、わざわざ杉原を領事にして送り込んだように思えてなりません。ただし、私は「陰謀史観」がKoreaと同じくらい嫌いですから(笑)

欧州では「日独伊防共協定」を強化する交渉が盛んな頃であります。この強化交渉は突然の「独ソ不可侵条約」締結によって頓挫してしまうのですが(このあたりで気付けよ、と思うんですがね。「あの」戦争はソ連を抹殺する方向で戦うべきでした)。
裏切りにあったような大日本帝国は、それでもドイツとの関係を慎重に強化しようとしていた時期にあたります。その頃と考えられる在カウナス日本領事館の画像がアジ歴にありましたので、転載しておきます。

カウナス領事館外観

カウナス領事館外観

杉原が本国外務省の意向を無視して多くのユダヤ人を救い、「東洋のシンドラー」と呼ばれることになったドラマの舞台がこの場所です。
余計な事を申し上げますと、「ユダヤ人救済」がこの場所だけで完結したワケではありませんけどね。

さて、杉原が在カウナス日本領事館領事代理に任命された頃は、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激しくなっていました。占領されたポーランドをはじめ、ナチス・ドイツの甚大な影響下に置かれた地域からは、ユダヤ人たちが脱出を図っていました。

今の中東地域からの難民と同じことであります。この難民をどのように扱うか?という事がドイツと敵対する欧州各国や大日本帝国にとって大きな問題になっていた事も、現代と同様でした。

各国には各国の事情がありますので、いちいち説明すると長くなってしまいますので日本だけに絞ります。フィンランドがユダヤ人難民に対してどういった政策を取ったか?なんて儂も知らんし(笑)

一人では救えない

手っ取り早く言ってしまいますと、大日本帝国は「ユダヤ人難民の領内通過は容認する」って言う方針でありました。
昭和15年(1940年)7月26日付けの松岡洋祐外務大臣から在サンフランシスコ総領事あての電報が残っています。

この電報で、松岡外相は日本経由でアメリカに逃れるユダヤ人難民が、13日横浜発の「鎌倉丸」で13名、22日発の「氷川丸」には77名も乗船しており、引き続き多数に上るであろう、と述べているんですね。

日本にもかなりの数のユダヤ人が既に逃れて来ていたのですが、日本には一時滞在するだけで、さらに他の国に避難していきました。英米と対立して、ドイツと組まなきゃいけない立場だった日本としては、大っぴらに「ユダヤ人ウェルカム」とは言えなかったのは止むを得ない所でしょう。

一応、ユダヤ人だけじゃなくって、すべての外国人に対して「避難先の国の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しない」という事にしてありましたけどね。

杉原が手が疲れて動かないほど(夜は奥さんが手首をマッサージしてたそうです)通過ビザを書きまくっていたのは、このような背景があってのことでありました。大国で軍隊も強い大日本帝国の外交官である杉原は手首が疲れる程度で済みますが、逃げてきたユダヤ人はそれではすみません。

逃げきれ無ければ虐待のあとに死が待ってるんですから(ついでに申し上げておきますと、ユダヤ人の避難先として最も多く使われたのはオランダ領キュラソーだったそうです)。

杉原千畝、カウナス領事館前。看板には「ユダヤ人入るべからず」

杉原千畝、カウナス領事館前にて。
看板には「ユダヤ人入るべからず」

逃れてきたユダヤ人たちが「日本に入国しても、その後は行くとこおまへんねん」とか正直にいうワケがありません。
それどころか、日本までのチケット(船便ですよ)しか無く、滞在費用すら持っていない者が頻出していたのです。

こうした問題を、外務省は何度も杉原に伝えてビザ発給を止めるように訓令しています。杉原は無視するでも反論するでもなく、「もうちょっと書いたら止めるからね~」とか言いながら2132枚(リトアニア人+旧ポーランド人向け/このうちユダヤ系1500枚)ものビザを書きまくったのです。

この数字は杉原が外務省に送った電報にハッキリ書いてあります(アジ歴レファレンスコード:B04013205200 民族問題関係雑件/猶太人問題 第四巻)←クリックでアジ歴の「キーワード検索ページに飛びますので、検索窓にレファレンス・コードをコピペして下さい) 。

このビザは「家族単位」で1枚だったそうですから、「杉原が6000名のユダヤ人の命を救った」と言うのはこのあたりから来ている数字かも知れません。

シベリア経由

まさに「藁にもすがる思い」で、杉原千畝が発給した「命のビザ」を手に入れたユダヤの難民たち。
しかし、まだ迫害の手から逃げ切ったわけではありません。広大なソ連領を東へ向かわなければいけませんでした。西はドイツ軍が攻め寄せてきています。南へ行けば良さそうなモノですが、こちらはソ連の穀倉であり油田もあり、立ち入りは出来そうもありません。

結局、シベリア鉄道でおよそ2週間もかけて極東のウラジオストクへ行かざるを得ません。ユダヤ難民の非難経路ウラジオストックからは日本の船便があるのですが、前述のように大挙して押し寄せる難民に対する「拒否反応」は実際のところ、日本の外務省にもありました。

本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事

 

これは害務省からウラジオストック総領事館に対して発せられた公電で、ちゃんと外務省の記録に残っているそうです。

『どこや知らんけど、わが国の役人がヨーロッパの難民(ユダヤ人)に出しちまったビザやけどな。ぜーんぶお前のとこ(ウラジオ総領事館)か在ソ連大使館で再チェックせえよ!んでもって、受入国(杉原が出したのは滞在可能10日の通過ビザ)の手続きが完璧なことを証明させたれや!証明でけへんヤツは入国認めたらあかんでえ』
って事でありますね。

もちろん、遠く欧州で好調な戦いを続ける同盟国向け「でも」あります。

シャグリン氏のビザ

ユダヤ人の一人、マルセル・シャグリン氏の通過査証(ビザ)

後で触れるように、外務大臣の意向を汲んでいるとはとても思えません。ユダヤ難民たちが受入国の手続きが完璧なことを証明できるはずもなく、普通に取れば追い払え、と言うことになってしまいます。

この本省からの訓電を受けウラジオストック総領事(代理)は普通には取りませんでした。一味も二味も違った対応をとるのであります。

帝國領事ノ査證ヲ有スル者ニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國ノ査證カ中南米行トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印ヲ拒否スルハ帝國在外公館査證ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス(昭和16年3月30日発電)

『かりにも大日本帝国の領事が発出したビザを持った人が、遠路はるばるウラジオストックまでやってきた。行き先の国が中南米だと言う理由で、一律に(日本入国の)検印を拒否すると言うのは、帝国在外公館の威信を傷つけることになり、よろしくありませんな。』

出先のたかだかが総領事(代理)が逆に本省を脅しています(笑)。

こんなやり取りは都合5回も繰り返され、ついに害務省が折れて(たぶん松岡外相も介入したんでしょう)ユダヤ人の乗船・入国が認められることになります。

ビザ発給を待つユダヤ人たち

ビザ発給を待つユダヤ人たち

このウラジオストック総領事代理は根井三郎。満洲のハルピンにあったロシア語中心の外国語大学、「ハルピン学院」で杉原千畝の2年後輩だったのです。

ハルピン学院とは、後藤新平が「ロシア対策」のための人材育成を目指して創設した学校です。中野学校から委嘱されて陸軍軍人の語学教育もやってますから、卒業生が気骨のあるのも当然だったかもしれません。もっとも、一般の学生と陸軍軍人は厳しく接触が禁止されていたようですが(笑)
根井総領事代理の「正論」でようやくユーラシア大陸を脱出できそうなユダヤ人たちでしたが、まだまだ「生き抜いた」とは言えませんでした。

官民が力を合わせて

「お役人」だけではなく、大日本帝国の市民の助力も、彼らの生存には必要だったのです。
ユダヤ人たちをウラジオストックから救い出したのは、「天草丸」という客船でした。うむ、ようやく電脳大本営らしく因縁話のネタが出てきたぞ(笑)

「天草丸」は昭和15(1940)年の秋から翌年の春までの約10ヵ月の間、ウラジオストックと福井県の敦賀港との間を、片道4日の道程なのですが、なんと29往復。

合計6000名に及ぶユダヤの人々を救い出ししたのです。「天草丸」をチャーターしたのは、神戸にあった大日本帝国で唯一つのユダヤ人の団体である「日本ユダヤ人協会」でした。
その注文を受けたのがJapan Bureau(現在のJTB)です。JTBとしては、超大口の社員旅行の注文を受けた、ってところでしょうか。片道ですけど。

大口の団体旅行の注文を貰ったら、当然のことですが添乗員さんを付けますよね。
このとき、JTBは大迫辰雄という社員を担当としてユダヤ人”旅行者”を献身的にお世話したようです。大迫氏、なかなかできた添乗員さんだったようです。

一航海あたり200名弱の「お客様」になりますが、添乗員さんが一人だけだったのか、補助の人が付いていたのかは調べきれませんでした。

ウラジオストクから敦賀まで冬の日本海を航海するのですから、海が荒れて大変だったでしょう。避難で弱りきったユダヤ人は船酔いと寒さと下痢でさらに痛めつけられました。
船内は異臭に満ちて、地獄のような4日間の航海だったそうです。

そんな中で大迫社員は厭な顔一つしませんでした。食事の世話から続出する病人のケアまであらゆる仕事をこなしながら、日本への上陸に備えて乗客の名簿を作らなければなりませんでした。

ユダヤの人達は同じ姓が多いそうですし、そもそも私達にとっては耳なじみの無いお名前が多いのでだいぶ苦労したそうです。
また、日本に上陸するにはパスポートが必要でしたが、持っていない人が殆どです。その人達には、身分保障のために「ユダヤ人協会」から現金が支給されていた(滞在のための費用を持っていることが条件でした)のですが、それを配るのも大迫社員の仕事でした。

ようやく港に到着したユダヤ人は「敦賀が天国に見えた」と言ったと伝えられています。
害務省(の厄人)はいやいやユダヤの人々を迎え入れましたが、敦賀の市民達は彼らを暖かく迎えています。

いえ、すべての日本の国民が大きな同情を持って難民を迎えました。

難民上陸を伝える朝日新聞

難民上陸を伝える朝日新聞

現代とは状況がちがいますが、「困っている人は助ける」のが日本人の本質なのでしょうね。

難民上陸を伝える福井新聞

難民上陸を伝える福井新聞

ユダヤ人たちは日本に来るまでにも各地で苦労してきました。財産を奪われた人も少なくはありません。そんな人達が、やっとの思いで敦賀まで隠して持ってきた時計や宝石を換金したのが「渡辺時計店」。

店の規模からは過大に過ぎる買取に応じていたそうですが、大東亜戦争の空襲で全てが灰になってしまい、画像の時計だけが残りました。

ユダヤ難民が渡辺時計店に売った女性用の時計

ユダヤ難民が渡辺時計店に売った女性用の時計

時計はお店のお嬢さんが気に入って貰いうけ、肌身離さずに持っていたために戦火をまぬかれたそうです。

ユダヤ人たちのビザの有効期限は10日だけでした。杉原は外務省に「日本滞在30日」のビザを申請していたのですが、本省から拒否されていたのです。

日本にたどり着いたものの、次なる受け入れ国は無いも同然のユダヤ人たちにとって10日間で出国することなどは不可能なこと。そこでユダヤ人協会は滞在延長を外務省などに要請するのですが、政府はドイツの方を見ながら、なかなか「ウン」とは言いません。

困ったユダヤ人協会はユダヤ教研究者の小辻節三に相談いたします。帝国の一般市民と同じく、ユダヤ難民の窮状に心を痛めていた小辻は二つ返事で難民のために活動することを承知します。

小辻は過去に満鉄に勤務していたことがありました。そのときの満州鉄道総裁は、現在外務大臣の要職にある松岡洋右だったのです。
小辻節三はこの縁を最大限に活用して、外務大臣松岡洋祐に「ユダヤ人救済」を直訴したのです。

ユダヤ難民が上陸した頃の敦賀港

ユダヤ難民が上陸した頃の敦賀港

小辻は、「外相の松岡は当然ユダヤ人難民を厄介者と見ている」と思い込んでいたのですが、松岡の反応は全く違いました。

「私は独・伊と同盟は結んだが、ユダヤ人を殺す約束まではしていない。」

と言って松岡洋右はやり手官僚らしい秘策を小辻に授けたのでありました。
「良いか、小辻さん。滞在延長を決める権限は自治体にあるんだよ。もし自治体がユダヤ人の滞在を認めるなら、外務省は口出しできんよ。」

ユダヤ人はまだ決まっていない「落ち着き先への船便待ち」を名目に、神戸に集まっていました。
この松岡大臣の言葉を受けた小辻は、滞在許可を出す神戸の警察署幹部を料亭で接待することにしたのです。
今なら小辻は贈賄・警察署長たちは受託収賄ですが、ココは目をそらしておくべき場所でしょう。
キレイどころのお酌と美味でお互いが打ち解け、気心が知れた頃合いを見計らい、小辻はユダヤ人難民たちが直面している窮状を説明しました。

警察幹部は小辻の言葉に心を動かされました。署長たちはお互いに相談し、一回の申請を受ければ15日間の延長を許可することにしたのです。
申請回数に制限はありません。面倒ではありますが、何回でも延長できますから、長期滞在も可能となったのです。

松岡・小辻と鼻の下を延ばした警察署長(複数)の機転で、出国までの時間的猶予を与えられたユダヤ人たちは、日本人から温かい飲み物や食べ物をふるまわれるなど手厚いもてなしを受けることが出来ました。
人としての気持ちを取り戻して、アメリカ・香港・上海などへと安住の地を求め旅立つことが出来たのでした。

天草丸2345トン

天草丸2345トン

 

轟沈

ユダヤ避難民をウラジオストックから敦賀港まで運んだ「天草丸」は、もともと日露戦争で鹵獲されたロシアの貨客船「アムール」と言うフネでした。

天草丸、松岡洋右を乗せて出港

天草丸、松岡洋右を乗せて出港

上の画像は日付(1932年10月22日)まで判っている敦賀出港の様子です。
日付まで判明しているのには理由があります。ヒントは見送りの盛況ぶりです。

これほど見送りが盛大なのは、乗客の一人が松岡洋右だからです。この時代に詳しい方や勘の良い方ならお判りじゃないでしょうか?

松岡はこの時、「天草丸」でウラジオストックへ向かったのです。さらにウラジオからはシベリア鉄道でヨーロッパへ入り、ジュネーブへ向かっています。国際連盟の臨時総会に出席するために…。

この総会で松岡は「十字架上の日本」と後に言われることになる名演説をぶちかまし、大日本帝国の立場を訴えて満場の喝采を得ました。しかしこの演説と拍手喝采も、英米の大日本帝国に対する反感を拭い去ることは出来ませんでした。

翌年、「満州事変」への非難決議は賛成42、棄権1(タイ)、反対1で可決されてしまったのです。

松岡はうなだれることなく、威風堂々と会場を後にすることになります。

その「船出」の写真なのです。まさにわが国近代史の「一瞬を切り撮った」と言える、私の大好きな一枚であります。

その後、この「天草丸」がユダヤ人を救い出したことは前述の通り。因縁と言わずしてなんと言えばよいのか?私には判りません。

そして、松岡を乗せてウラジオストックに行ってから12年。無念にも戦局は日々我に利あらず、各地の連絡船は次々に沈められてしまいました。

もう年老いていた「天草丸」ですが、この窮状に第一線に復帰することになります。鹿児島・沖縄・台湾航路で貨客船として活躍することになったのです。

「天草丸」は昭和19(1944)年11月22日、台湾の高雄港から砂糖1400トン・雑貨1257トン・遭難(つまり撃沈されたフネの)船員や婦女子496人を乗せて出港。早くもその日の22時、米潜水艦(複数と思われます)に船団ごと捕捉されてしまいます。

一発の魚雷が「天草丸」を捉えて船倉で爆発。たまらず「天草丸」は一分足らずで轟沈してしまいました。沈没が早かったため、船客385名、船員と警戒隊員59名が犠牲となっています。

「鹵獲船」をも大切に使い続けた大日本帝国、鹵獲船で他の国の難民を救い出す日本、政府は外交上の配慮で動くことが出来なくても、民間の力で困っている人を助ける日本。

民間船も遠慮なく沈める米国。やっぱり国は強くなければなりません

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