10式はヒトマル、零式はレイシキと読んで下さいね

零観イラスト

皇紀2600年

 昭和15(1940)年は、神武天皇のご即位から2600年目だ(もちろん史実ではありませんよ)と言う事で、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事が大々的に行われました。

 2600年大観艦式上空の97大艇

2600年大観艦式上空の97式大艇

電脳大本営的には「皇紀2600年記念大観艦式」がメイン行事なんですが、そのほかにも忘れてはならない事件があります。
事件、といっても禍々しい事などではなく、我が航空機の充実ぶり、なのですが。

少しもったいを付けさせて頂いて、陸海軍の航空機の制式名の付け方から見てみましょう。

陸軍では

最初期の命名は系統立ったものではありませんでしたが、一応の法則がありました。
モ式二型偵察機・モ式四型偵察機のように「メーカー名の頭文字」+式+「型」+機種名を使ったのですが、「メーカー名の頭文字」は「甲・乙・丙・丁・・・」などと記号化されました。
ニューポール社製機は「甲式」、サルムソンは「乙式」、スパッドは「丙式」です。
この名称はイタリアから輸入したら「イ式重爆撃機」、ロッキード社製を「ロ式輸送機」など後々まで使われています。
皇紀2587(昭和2、1927)年にこの命名法が大改正されました。
試作機を制式制定した時の名称を【制定時の皇紀年号下2桁+式+機種名】と決定したのです。

この年に制式採用された「八七式重爆撃機」から用いられ、敗戦まで続きます。
皇紀2600年制式採用の機体は「百式」、2601年なら一式となります。私たちに最もお馴染の機体名称ですね

陸軍機は「キ番号」も有名ですが、キ番号は新型機の開発が指示された時点で付けられるものです。機種に関係無く順番に付けられます。グライダーは「ク」、エンジン(発動機)は「ハ」、変わったところでオートジャイロの「オ」なども使われています。
語呂が良いキ番号などは現場将兵の間では、キ番号で呼称されることも多かったようです。
なお、 四式戦闘機の「疾風」や一式戦闘機の「隼」などはあくまでも愛称です。

海軍では

初めは元号が使用されていました。たとえば一三式艦上攻撃機は大正13(1924)年に制式採用された機体だ、と言うことです。

皇紀2589(昭和4、1929)年になって、制式採用された場合は「皇紀年号下2桁」+式+機種名に変更されました。
この方式は皇紀2602(1942)年の「二式」まで用いられました。皇紀2600年に制式採用された機体は「零式」といいます。

海軍機の制式名称は1942年の途中から物の名前に変わりました。

戦闘機(甲戦)=風(強風、烈風等)、局地戦闘機(乙戦)=電、雷(雷電、紫電、震電等)、夜間戦闘機(丙戦)=光(月光等)、偵察機=雲(彩雲、紫雲)、攻撃機=山(天山、連山、深山等)、爆撃機=星(彗星、流星、等)、哨戒機=海・洋(東海等)です。
覚えきれませんので、私はいちいちウィキで確認する事にしています。

陸軍のキ番号に相当するのは「記号」で、機種の記号、機種ごとの計画順の番号、設計会社の記号、何番目の改修型かを表す数字の4桁で表示します。
機種の記号はAが艦上戦闘機、Bが艦上攻撃機(雷撃機のこと)、Cは偵察機でDが艦上爆撃機etcとなっていました。
設計会社の方はMが三菱、Nが中島、Kが川西、Aが愛知航空機・・・少しですが後世の私たちへの配慮が感じられます。

さて、やっと本題に入ります。皇紀2600年、有名なのも隠れたものもふくめて、我が陸軍・海軍史上に特記されるべき機体が次々に制式採用されていくのです。

零式の名機たち

 今度は海軍から挙げてみましょう。
「甲戦」の零式戦闘機。これは皆さん御存じでしょうから説明不要ですね。

支那事変中から敗戦まで闘い続けた名機ですが、独逸のBf109が初めから戦争を戦い抜くつもりで造られたのに対して、我が零戦はそうじゃない、単純に九六戦の更新だったようです。
其処に零戦の悲劇があって、名機ぶりが際立つように思います。

海軍の零式には零戦のほかに、零式水上偵察機・零式観測機・零式小型水上機と三種の水上機が加わります。どれを取っても、海軍の戦争思想を具体化させた機体なんです。

  水偵 零観 小水機
翼幅m 14.50 11.00 10.98
全長m 11.49 9.50 8.53
最高速度K 367 370 246
航続距離K 3,326 1,070 882
兵装 7.7 mm 機銃 × 1
60k爆弾×4or
250k爆弾×1
7.7mm機銃機首×2
7.7mm機銃後方×1
60K爆弾×2
7.7mm機銃 ×1
60K爆弾×1
乗員 3名 2名 2名

 
零式水上偵察機は愛知航空機で設計されて、1,400機あまりも生産されました。水上機の川西と競争試作だったのですが、川西機が事故を起こしてしまい、制式が転がり込んだ幸運の飛行機です。

デリックで釣りあげられる零水

デリックで釣りあげられる零水

特徴は胴体内に爆弾倉を持つことでしょうか?良い悪いは別ですが・・・
広範囲の索敵をこなす為に長大な航続距離を与えられ、主に巡洋艦に搭載されて太平洋を飛びまわりました。

 

零式観測機は愛知航空機と三菱の競争でした。水上機ですが、制式名に「水上」は付きません。

離水する零式観測機

離水する零式観測機

戦艦の弾着観測をする事が目的の機体だったため、航続距離と速度は問題とされませんでした。
三菱はこの点を巧みに利用し、あえて複葉機として上昇力と機動性(敵の戦闘機の妨害をかわす為)重視の機体に仕上げました。この点が評価されて、水上機に慣れていない三菱が制式を勝ち取ったのです。

通常は異常に航続距離にこだわる我が海軍も、たまにはいい仕事してますね。

結果として水上戦闘機としても使えるほどの運動性能があり、「鼠輸送」(ガダルカナルへの駆逐艦での輸送)の支援などで活躍しています。

活躍と言えば、零式小型水上機は絶対に忘れられません。
先に活躍ぶりを申し上げますと、大東亜戦争の開戦前から米軍要地の偵察を行い、フィジー、ハワイ等に出没したとされています。

射出を待つ零式小型水偵

潜水艦からの射出を待つ零式小型水偵

そして昭和17年9月、伊25潜から発進した零式小型水上機が二度にわたって米本土オレゴン州に侵入・爆撃を行いました。
歴史上、我が日本だけがなしえた「アメリカ本土への爆撃」はこの小さな飛行機が主役でした(他に潜水艦による砲撃もあります)。

後の「晴嵐」の直接のご先祖様と言って差し支えないでしょう。

零式小型水偵の編隊

零式小型水偵の編隊

設計は空技廠で、潜水艦に搭載するために開発されたものです。そのため、垂直尾翼の背が低い特徴的なシルエットをしています。他にも主翼の折畳みなどの工夫が施され、母艦の浮上から発進まで10分しかかからなかったそうです。

百式の名機たち

次に陸軍機を
まずは忘れられている名機、百式輸送機です。

敗戦直後の百式輸送機調布

敗戦直後の百式輸送機。調布にて

この機は傑作快速爆撃機の『九七式重爆』の派生型と言って良いもので、胴体を改造して兵員輸送用としたものです。三菱が改設計を担当して500機あまりが生産されました。

レイテ島の戦いで海上輸送の間接援護として、百式輸送機に乗り込んだ「高千穂部隊」よる飛行場制圧作戦が実施され(ほぼ成功に近かったのですが、輸送船の方が全滅)、この方式が沖縄戦などへも引き継がれていきます。

少し有名になって、百式重爆撃機「呑龍」
前任の九七式重爆と比べて大して速度も上らず、搭載量も増えず、と駄作のイメージが強い「呑龍」。

百式重爆撃機

百式重爆撃機

しかしエンジン換装型では時速590キロ(通常タイプで480キロちょっと)の高速を叩きだしていまして、駄作と言うのは機体よりエンジンの問題とも言えます。

その上海軍機より撃たれ強い陸軍機の中でも、特に防弾に優れていました。
ポート・ダーウィン空襲作戦では50機ほどのスピットファイアに迎撃されましたが、参加18機中で撃墜されたのは2機のみでした。
帰還したあと、ほとんどの機は被害が酷過ぎて廃棄されたそうですが・・・それも考えようによってはボコボコにされても落ちないって事ですものね。

最後に超有名な百式司令部偵察機
新司偵とも呼ばれた戦略偵察用の長距離・高速偵察機です。

百式司偵

百式司偵

三菱の設計陣が理想を突きつめた傑作で、細身で流線型の胴体、一見変な形の尾翼、こっちは一見して空力の良さそうなエンジンカウルと全てスピードのため。
英国の高速機「モスキート」とともに、「無理な要求をしない方が技術者は良い仕事をする」見本のような機体です。

エンジン、機体ともに順調な生産だったことも大日本帝國の高性能機としては特記すべきことだと思います。
この新司偵のエンジンを、液冷エンジンが生産不足で余った三式戦「飛燕」の機体にくっつけたのが、我が陸軍最後の制式戦闘機「五式戦闘機」です。

三型の最高速は650キロ/hに迫り、条件さえよければ700キロ/h出ていたと言う記録もあります。
高空性能も優秀で、斜銃を装備した戦闘機型が本土防空戦で活躍しています。

如何です?皇紀2600年、陸海軍も各メーカーも気合が入ってたんですね。まあ、ちょっとズルした飛行機(制式決定がホントは翌年だった)もありますけど。
皇紀2700(2040)年にはどんな新兵器が私たちを喜ばせてくれるんでしょうか?

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