エンガノ岬の真相

エンガノ岬の「伊勢」

航空機が発達し、洋上に行動中の敵艦を攻撃できるようになると、「大艦巨砲」の終焉が言われるようになります。

「大艦巨砲」は本当に航空機の攻撃に負けたんでしょうか?

戦艦の喪失原因

実は、電脳大本営では既にこのテーマで記事を一本アップしております。この記事中に、せっかく造ったテーブルがありますのでパクって参りましょう。

我が戦艦の喪失原因の表であります。

戦艦
喪失原因 隻数 艦名 比率
水上艦と戦闘 4 比叡・霧島・扶桑・山城 33%
航空機の空襲 5 大和・武蔵・榛名・伊勢・日向 42%
潜水艦の雷撃 1 金剛 8%
事故で喪失 1 陸奥 8%
機雷で喪失 0 0%
残存 1 長門 8%

以前の記事「大艦巨砲は本当に飛行機に負けたのか」では、この表などから
「洋上を行動中に、飛行機に撃沈されたのは2隻だけじゃん」
と結論しています。

「榛名」「伊勢」「日向」の3艦は燃料も無くなって偽装して停泊中を空襲されたモノですからね(笑)

江田島で爆撃される榛名

江田島で爆撃される「榛名」ちゃん

 

「だからどやねん!」と仰るムキも多くおられると思いますよ。でも、考えてみて下さい。

帝国海軍は開戦後の就役2隻を含めて、12隻の戦艦を大東亜戦争に投入しました。

激戦を経て、敗戦時に行動可能な状態で残存したのは「長門」ただ一隻だけですから、11隻の戦艦が沈んだことになります。

ほんでもって、実際の作戦行動中に「航空機の攻撃」によって撃沈されたのは「大和」「武蔵」の大物姉妹だけなんです。

この2艦は圧倒的な航空機の数量による、繰り返し繰り返しの攻撃を受けた、いわば「嬲り殺し」だったのではないでしょうか。

このような特殊事情を持って、「大艦巨砲は航空機に負けたんだ」と言って良いモンでっしゃろか?

喪失原因別の数量で言っちゃえば、「戦艦同士の殴り合いで負けた」と言った方が正しくはないかい?

レイテ沖にて

レイテ沖にて

と言うのが、電脳大本営の主張なのでありまして。

将来「巨砲」のカタチはかわっても、鉄壁の防御力を誇示しつつ太平洋を圧する「ニュータイプ戦艦」が出現しないかなあ、といつも願っておるんでありますよ。

戦艦はその強大な攻撃力を云々されますが、その攻撃力を跳ね返す防御力こそ戦艦の本質ですからね。攻撃力だけなら「巡洋戦艦」も同等です(笑)

そこで、ですね。ちょっと「榛名」(我が戦艦の中では、一番女性っぽい名前で、儂は大好きです)ちゃんにはご遠慮いただきます。
戦艦「伊勢」と「日向」の姉妹とその艦長さんと司令官がどのように航空攻撃を退けたか?をエンガノ岬を中心に見てみようじゃん、と言うのがこの記事のテーマであります。

囮艦隊

大日本帝国が世界に先駆けて考案した「機動部隊」、すなわち航空母艦を集中運用して強大な攻撃力を付与し、周囲を快速の護衛艦艇で固めた「空母中心の攻撃志向部隊」。

大東亜戦争の開戦時には世界中の海軍に衝撃を与えたであろう「機動部隊」も、「鋭才」小沢治三郎提督がその指揮権を継承した時には、すっかりその戦力をすり減らしていました。

小沢治三郎

小沢治三郎

 

打ち続くアメリカ軍との激闘に、戦力の中心であるはずの鍛え上げた搭乗員を次々と失い、次なるパイロットの養成も進まず。
練成も成らぬままに、小沢提督の従来の主張である「アウトレンジ戦法」でマリアナ沖の大海戦を戦ってしまったからです。

アメリカ軍のフィリピン侵攻をうけて、敗残の小沢機動部隊には栗田提督の「第一遊撃艦隊」をレイテ湾に突入させるための「囮」としての役割しか与えられることがありませんでした。

小沢機動部隊とは捷一号作戦に関わる戦闘用に臨時編成された艦隊で、基本的に第三艦隊です。

司令長官:小沢治三郎中将、参謀長:大林末雄少将らに指導されていました。艦隊の構成は

第三航空戦隊(司令長官直率)=空母「瑞鶴」(零戦28機、爆装零戦16機、彗星7機、天山14機)・小型空母「千代田」(零戦8機、爆装零戦4機、97艦攻4機)・小型空母「千歳」(零戦8機、爆装零戦4機、天山6機)・小型空母「瑞鳳」(零戦8機、爆装零戦4機、天山5機)

第四航空戦隊(司令官:松田千秋少将)=航空戦艦「伊勢」・航空戦艦「日向」(両艦ともに航空機は搭載せず)

巡洋艦戦隊(司令:山本岩多多摩艦長)=軽巡洋艦「多摩」・「五十鈴」

警戒隊
第一駆逐連隊(司令官:江戸兵太郎少将)=軽巡洋艦「大淀」駆逐艦「槇」「杉」「桐」「桑」(第三十一戦隊)
第二駆逐連隊(司令:天野重隆大佐)=駆逐艦「初月」「若月」「秋月」(第六十一駆逐隊)+駆逐艦「霜月」(第四十一駆逐隊)

1943、秋月宮津湾で公試

宮津湾で公試を受ける「秋月」

 

発見される

大量のアメリカ軍機の攻撃で大戦艦「武蔵」を失った栗田艦隊は、いったん避退の道を選択したようでした。

昭和19年10月25日、小沢艦隊は0712に敵偵察機に接触されていることを認識、直衛用の戦闘機18機を除いた残存機を陸上へ退避させます。
「航空機は砲弾」と言って憚らぬ小沢治三郎長官も、流石に練成未成のパイロットは戦場で活躍することは出来ないと悟ったのでしょう。

小沢長官は残った戦闘機のうち6機を直掩として発艦させると、各艦隊、特に栗田艦隊に向けて

「機動部隊本隊敵艦上機ノ蝕接ヲ受ケツツアリ」
と打電するのですが、肝心の栗田艦隊はこれを受信出来ていませんでした(本土の軍令部では受信記録あるも、栗田艦隊に転電の記録は無し)。

帝国海軍最後の機動部隊である小沢艦隊は、栗田艦隊の進撃のために敵の航空攻撃を引き付けているのですから、この電信不着は大問題だったでしょう。

私はなぜ小沢治三郎ともあろう者が「受信確認」を求めなかったのか?不思議でなりません。

真珠湾攻撃準備中の瑞鶴、後方翔鶴

真珠湾攻撃準備中の「瑞鶴」、後方は「翔鶴」

 

それはともかく、このとき小沢艦隊は空母「瑞鶴」「瑞鳳」航空戦艦「伊勢」を中心とするグループ(小沢長官直卒)と空母「千歳」「千代田」航空戦艦「日向」を主力とするグループ(第四航空戦隊司令・松田千秋少将)の二つが、近接してそれぞれ輪形陣を造っていました。

空襲開始

この朝(10月25日)0815、ついにハルゼーの指揮する空母の大群から第1次攻撃隊(180機?)が小沢艦隊に襲い掛かってきました。
小沢中将は「敵艦上機約80機来襲」を送信しますが、これも帝国艦隊は誰も受信しません(小沢艦隊の僚艦には受信記録あり)。
どうも怪しいのでありますが、その謎解きは何時かまた、といたしましょう。

アメリカ艦載機の闘志も旺盛でした。

空襲開始から20分の0835、ついに空母「瑞鳳」が一発被弾して舵機故障(応急修理で回復)。

続けざまに2分後、空母「瑞鶴」に魚雷が命中して速力低下。軽巡「大淀」にも直撃弾1発・至近弾2発。

軽巡大淀

軽巡「大淀」

 

大日本帝国側の直掩機も黙ってはいませんでした。
わずか18機ながら空母を守って大奮闘。この後の2次空襲も含めて敵17機を撃墜しています。

この乱戦の中で防空駆逐艦「秋月」が0850、突如爆発を起こして僅か6分で沈没してしまいます。

空母に向かう敵魚雷を自らの艦体に受けた、長10サンチ高角砲の破裂後の弾片が自艦に降り注ぎ、魚雷が爆発した…などと言われますが、その原因は不明です。

エンガノ岬沖で被弾炎上する

エンガノ岬沖で炎上する「秋月」

 

空母「千歳」には5発の直撃弾と無数の至近弾。罐室に浸水して0915には航行不能となり、0937に沈没。
軽巡多摩も被雷して傾斜。

この間、旗艦「瑞鶴」の通信が困難となり、小沢艦隊の「囮成功電」はついに味方に届かないままでした。

波状攻撃

0942には航空戦艦「日向」のレーダーが新たな編隊を捕捉します。
味方機の来援はあり得ませんから、アメリカ軍機に決まっていますが、第一波もまだ上空を飛び回っている状態でした。

小沢艦隊の水兵さんに休む間を与えることなく、攻撃が始まります。
1000、空母の中で唯一無傷だった「千代田」にも爆弾1発命中。大火災を起こしわずか16分後の1016、航行不能。

軽巡「五十鈴」と被雷した「多摩」は空母「千歳」沈没点に到達して生存者を発見、「五十鈴」が救助作業にあたり「多摩」は単独で中城湾へ向かいました(松田第四航空戦隊司令の指示)。

1054、艦隊司令長官の小沢治三郎中将以下の司令部要員は被弾して通信もままならぬ空母「瑞鶴」を捨て、軽巡「大淀」に移乗します。

小沢中将は移乗すると「大淀ニ移乗、作戦ヲ続行ス」と打電します。
これは栗田艦隊(戦艦「大和」が1241に受信)にも届きます。もちろん軍令部でも受信しています。

何の情況変化も無しに、艦隊司令部が旗艦を捨てて軽巡洋艦に移る筈はありません。

此処までの「小沢艦隊発電」が本当に全て受信できていなくても、この電文を受信しただけで「小沢艦隊が敵を引き付けている」事は窺えると思うところなんですが。

瑞鶴を護衛する若月、遠方は瑞鳳か

「瑞鶴」を護衛する「若月」、遠方は「瑞鳳」か

 

しかししかし、軍令部も栗田艦隊でも、「敵の空母部隊は作戦通り吊り出された」、と言う判断はされていません。

小沢治三郎提督、無念であった事でしょう。

余談になりますが、昭和41年の事であります。
栗田建男は死の床にあった小沢治三郎を見舞っています。

小沢はやせ細ってしまった手を伸ばし、栗田の手を握って離さなかったそうです。

二人は終始無言。
祖国の興廃を背負って太平洋で大艦隊を指揮した男同士が「持って行くモノ」が、二人の手の中と心の内にあったんだろうか?私にはそう思われてなりません。

閑話休題。

有名なアメリカ太平洋艦隊長官ニミッツ大将からの
「第38任務部隊は何処にありや?全世界は知らんと欲す」
という連絡が届き、ハルゼー大将が怒り狂う(ハルゼーは栗田艦隊がレイテ湾に迫っても、残った戦艦部隊で対処可能と分析していました)のは、小沢司令部の移乗とほぼ同時刻でした。

ハルゼー大将は怒りながらも1115、第34任務部隊・第38任務部隊を率いてレイテ島沖に引き返していきました。

それでも、残されたアメリカ艦隊の戦闘力は優に小沢艦隊を凌駕しています。

チェスター・ニミッツ

チェスター・ニミッツ

 

我が艦隊上空の直掩機はこの時点でも9機が残存していましたが、流石に燃料を使い果たしていました。

着艦する空母は残っていません。

1100ころから直掩機は次々に不時着水を始め、搭乗員は1200までに駆逐艦「初月」が収容しています。

空母全滅

1258、小沢中将は後方の輪形陣を指揮する松田少将に合同するように命じました。

その艦隊を次の100機近いアメリカ攻撃隊が襲います。

攻撃隊は空母「瑞鶴」と「瑞鳳」に攻撃を集中、「瑞鶴」には7本もの魚雷と4発の直撃弾に加えて無数の至近弾。

1323には傾斜が20度に達し大火災も発生。1327、「総員発着甲板」が下令されて軍艦旗が降下され、同時に万歳が三唱されます。

有名な写真のシーンであります(涙)。

沈没寸前の瑞鶴

沈没寸前の「瑞鶴」甲板上で万歳三唱の名シーン

「瑞鳳」は1317から10分の間に魚雷2発と爆弾4発、至近弾多数。

1432からの20分間では命中弾はナシ、至近弾10数発。至近弾は水中での爆圧で艦体が痛めつけられます。

「瑞鳳」は傾斜が16度を超え、主機械も停止して航行不能。1510、総員退艦が発令され、1526沈没。

こうして囮の小沢艦隊に残された空母は「千代田」一艦だけとなりますが、その「千代田」も航行不能で浮いているだけのありさま。

松田少将の指示によって軽巡「五十鈴」が曳航しようとしたのですが、「五十鈴」の燃料も不足しており、諦めてしまいます。

この後、「千代田」はアメリカの巡洋艦隊(デュポース中将指揮)にメッタ撃ちにされて沈没してしまうのでありますが、その話は別にさせていただきます。

小沢中将の合同命令を受けて松田少将は航空戦艦「日向」(松田少将座乗)と駆逐艦「霜月」を率い、小沢長官との合流を目指します。

被弾ナシ

小沢艦隊はもう艦隊の態を成していませんでした。

航空戦艦伊勢

航空戦艦「伊勢」

 

小沢中将が座乗している軽巡洋艦「大淀」と航空戦艦「伊勢」は北上中でした。

駆逐艦「初月」「若月」「桑」は撃沈された空母「瑞鶴」「瑞鳳」の乗員を救助中。

松田少将の「日向」と「霜月」が「大淀」との合流を目指してこれも北上中。
損傷して微速で中城湾への避退を目指す重巡「多摩」も松田少将とほぼ同航。
「千代田」の曳航を断念した軽巡「五十鈴」と駆逐艦「槇」が伊勢の艦橋から見える範囲内で運動中。

1726、「大淀」と「伊勢」にアメリカ艦載機85機が来襲しました。

この攻撃は空母を全て失った小沢艦隊に残された大型艦である「伊勢」に集中。
しかし航空戦艦「伊勢」は28連装12cm噴進砲(対空ロケット砲)6基を駆使して22機を撃墜。

「伊勢」艦長の中瀬泝大佐は鈍重で知られた自艦を見事に操艦、敵の投弾を全て回避します。ただ、あまりの爆弾の多さに、至近弾は34発の多きに達し、左舷罐室が若干の浸水を見ました。「損害軽微」の範囲です。

1722、アメリカ軍は松田少将の率いる「日向」「霜月」にも攻撃の手を伸ばしています。

コチラでも野村留吉「日向」艦長の操艦は絶好調でした。

「日向」7発、「霜月」は10発の至近弾でこの攻撃をやり過ごします。
この時来襲したのは10数機と記録されていますが、至近弾の数から考えると、少なくても3~40機は居たと思うんですがね。それでも直撃弾はゼロ。

主砲三式弾112発、12.7糎高射砲弾659発、25粍機銃弾28970発、噴進砲弾250発を発射し、撃墜6機の戦果を挙げています。

標的艦「摂津」

見事な操艦でアメリカ海軍機の大群の攻撃をかわし続けた航空戦艦「伊勢」と「日向」で構成される「第4航空戦隊」は、何度も書きましたように、松田千秋少将に指揮されていました。

この松田千秋少将こそ、「伊勢」と「日向」の両艦長に空襲回避法を伝授した人物、とされています。

松田千秋は昭和16年9月1日に標的艦「摂津」の艦長に任ぜられています。

標的艦摂津1940年ころ

1940年ころの標的艦「摂津」

 

「摂津」はワシントン条約によって廃艦になった戦艦で、駆逐艦「矢風」を「操縦艦」として砲撃訓練の目標艦となったモノです。

ただ、航空機による爆撃訓練を受ける場合は乗組員が防御区画に籠って回避運動をしていました(投下する爆弾は模擬弾)。

松田艦長はこの爆撃訓練時に「敵機」の行動と投弾コースを見極めて、絶対に回避できる!と確信する操艦方法を見出したのであります。

松田の偉いところは、自分で「爆撃回避法」を習得しただけではなく、これをレポートとして海軍内に配布(教育局に提出?)したことです。

帝国海軍はこれを公式に取り入れることはありませんでしたが、各艦長が個人レベルで研究することを止めたりはしませんでした。

結果として、松田少将隷下の艦長たちはこの「回避法」を会得してエンガノ岬沖海戦に臨んだ、「回避法」は十分にその真価を発揮したと言うワケであります。

松田千秋

松田千秋

 

さて、この「爆弾回避法」なんですが、原本が何処にあるのか?ハッキリしないのです。

廃棄されちゃった記録もありませんし、ひょっとして防衛省が公開してないのかも?
いや、ソレなら良いんですよ、必要なら私たちみたいな軍事オタクの希望なんぞ無視して秘密にしておくべきです。

しかたありませんから、艦長さんが残して下さった「海戦話」から回避法を探ってみたいと思います。

どうやって全弾回避出来たのか?

航空戦艦「伊勢」の場合85機が来襲して、そのほとんどが「伊勢」に向かってきたモノと思われます。撃墜機数から見ても、85機は襲ってきてますよね。

単純に、急降下爆撃ばっかりだったと仮定しましょう。85発投弾されて至近弾は34発。51発は完全に回避したって事です、一発も命中してないんですから。

艦長の中瀬泝大佐のお話(昭和56年のインタビュー/インタビュアーは佐藤和正氏)によると、

「右へ飛んで行って空を見上げ、左へ飛んで行って敵機を見上げ、と言う具合で艦橋の中を右へ左へ飛び回っては、転舵の号令をかけていたんです。」

中川泝大佐航空戦艦「伊勢」艦長

中川泝大佐(航空戦艦「伊勢」艦長)

 

ぜったい嘘です

伊勢型の艦幅は35メートルでっせ。昼戦艦橋の幅だって15メートルはあるでしょうね。そこを右へ行ったり左へ来たりして自分のおめめで確認して急降下爆撃を回避したってか?

しかもその艦橋の内部についてご本人がこのように仰っているに至っては(笑)

「艦橋の中は、みんな防弾チョッキに鉄帽をかぶって着ぶくれしていますから歩けないほどです。だから、ぼくは棒で相手の鉄帽を叩いては、道をあけさせ、動きまわっていたもんです。だからぼくは、動きまわりやすいように、防弾チョッキも鉄帽もかぶっていませんでしたね。」

まあまあ、ご自分の戦功を誇りたいのは人間誰でも一緒だから、儂は煩い事は言いません。

でも中瀬大佐、あなたと同僚の帝国海軍の艦長さんたちって、訓練の時にも艦橋の中走り回ってるんですか?

何のために見張り専門の水兵さんを養成してるんですか?それも夜目のために肝油とか支給してまで。

艦長さん、あなたは素晴らしい実績を上げたんだから、正直に「艦の乗組員にも助けられた」と言った方が良かったと思いますよ。

まあまあ、回避に必要な情報をどうやって入手したか、し続けたかはもう問いません(笑)
どうやって爆弾をことごとく回避できたのか?が問題なんであります。
中瀬大佐(最終階級は少将)、今度はちゃんと教えて下さいよ…

「米軍機は単機で急降下するということが、ほとんどなくて、数機、またはそれ以上の密集編隊が急降下してくるんですよ。当日はまったくの快晴で雲一つない状態だったので、急降下するとき、太陽の反射でキラキラするのですぐわかるんです。」

降下に入るアメリカ急降下爆撃機「ヘルダイバー」

降下に入るアメリカ急降下爆撃機「ヘルダイバー」

 

うん、なるほど。ココまでは納得出来るな(笑)

「この瞬間に急速転舵して回避にうつり、弾着と同時に、急速、舵をもどして旧進路に復したわけです。つまり敵編隊が急降下に入ったとき、こっちが転舵すると、それに即応して侵入進路を修正することができないんですね。編隊を組んでいるから、修正すると、互いに接触する危険があるわけです。」

なるほどね、真っすぐ降下してくるしかないんだな。

しかしながら、この程度の回避は他の艦長もやっておられるんじゃないかなあ?「舵を戻して」だけでは旧進路には戻んないしなあ。

どうも中瀬艦長は「全部正直に喋る」って姿勢なワケじゃないみたいですな(もちろん、それが悪い訳じゃないですよ。喋れぬ事もあるかも知れぬ、軍事やもん。パヨチン糞メディアの捏造報道とは違うのだ)。

「日向」の艦長さんにも聞いてみるべし。

急減速できるから

松田少将の率いる「第4航空戦隊」のもう一隻の航空戦艦「日向」の艦長は野村留吉大佐(最終少将)でした。

野村大佐は給糧艦「間宮」、重雷装軽巡「北上」と変わった軍艦の艦長を経て、コチラもある意味で変態艦である航空戦艦「日向」の艦長となったのが昭和18年12月5日。

給糧艦間宮

給糧艦間宮

 

「日向」は既に航空戦艦への改装が成り、艤装も終わり、公試も済んでいた状態です。

野村大佐は搭載される22機の航空戦力に期待しつつも防空能力にはやや不安を感じたようで、飛行甲板の両舷に3連装機銃、2番・4番砲塔の天蓋にも単装機銃、飛行甲板上にも単装機銃を9門引き出せるように要求しています。

これらの増設で「日向」の対空25粍(ミリ)機銃は3連装27基81門、単装11基の合計92門となりました。まさにハリネズミです。
更に10月はじめには飛行甲板の両舷に「噴進砲」を装備しています。

「日向」(「伊勢」にも)に装備された「噴進砲」は12糎対空ロケット弾で、「砲」と言うより箱ですね。

この箱に28発のロケット弾がセットされています。これが6基設置されましたので、168発が一気に発射出来るワケです(実際には射手がハンドルを回して発射していくので、一斉に飛び出すわけではありません)。

噴進砲砲架

噴進砲砲架

 

ロケット弾そのものは砲側(発射箱の横)に大量に用意しておき、発射した後にどんどん手で入れて行ったそうです。

「敵の爆撃機は艦尾から急降下してきますからね。だから飛行甲板の下に装備した。あのロケット弾には米軍機は困ったろうと思いますね。」

さて、この記事で肝心の爆弾回避です。

「敵機はもっぱら後方から急降下爆撃をしてきましたね。そのとき回避運動をするのですが、まず艦橋の見張り員が報告したら、艦長は敵機のようすを見て操艦するわけです。」

自分で敵機のようすを見に走り回ってるのは、やっぱり「伊勢」の艦長さんだけなんだな(笑)

「だいたい見張り員が『突っ込んで来ますッ!』と叫んだ瞬間に、『オモ舵一杯ッ!』と叫ぶわけです。敵機を見ている暇がない時は、ほとんどカンで操縦しますね。ぼくの場合は、たいていオモ舵一杯と言ってました。」

うんうん、良く「伊勢・日向は同じ方向ばかりに転舵して爆弾を回避した」と言われる、例のヤツでありますな。

航空戦艦に改装の日向

航空戦艦「日向」

 

「爆撃に対してはオモ舵でも、トリ舵でも、どっちかに取ればいいんです。とっさの場合だし、それが言いやすかったから、ぼくは、オモ舵一本でやったわけです。『伊勢』の中瀬艦長は、もっぱらトリ舵で回避していたと言っていましたね。」

「戦闘中は最大戦速で走っていますからね。『日向』のソレは25ノットですが、そのスピードでオモ舵一杯をとると、急激にブレーキがかかって回頭します。

戦闘艦橋がぐぐーっと傾いて海の上に出ますよ。体が傾きますしね、あまり気持ちのいいものではないですよ。そのとき、約5ノットくらいにスピードが落ちます。

そうすると急降下の態勢に入った飛行機は、目標が後落してゆくので、機首をどんどん下げて前のめりの格好になる。とうぜん照準が狂ってくるというわけです。」

本当でしょうか?時速50キロ弱で走っている大艦が10キロまで一瞬で減速したら、そりゃあ当たりませんけどね。ただ「戦闘艦橋がぐぐーっと傾いて海の上に出ます」って言うのは回頭、横方向の傾き(ローリング)です。

これだけの急減速だと、なんぼ大艦・巨艦でも前のめりに(ピッチング)なりますし、通常の航海ではほとんど経験しない機動ですから、コチラの方が「あまり気持ちのいいものではないですよ。」の筈なんですが、言及がない。

伊勢の爆弾回避

「伊勢」の爆弾回避

 

これが不思議でならないんですよね。

けっきょく良く判らない

松田千秋提督が考案した「爆弾回避法」は結局どういうモノかは二人の艦長さんのインタビューでは解明されないようです。

どなたか、謎を解いてください。

ただ、言えることは大量の急降下爆撃機と雷撃機(帝国海軍で言う攻撃機)の攻撃は回避可能だった、と言う事でしょうか。

現在では、攻撃方法もその回避法も全く性質が変わってしまいましたが、「絶対に避けることができない攻撃」なんてモノはないのじゃないでしょうか?

ですから、ニュータイプの戦艦、造ってくれないかなあ。

すみません。願望だけ先走って、謎は解けませんでした。

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エンガノ岬の真相” に対して1件のコメントがあります。

  1. 通りすがりのE13A1 より:

    電脳大本営様
     
     いつも楽しく拝見させていただいております。
     「エンガノ岬の真相」で「軽巡大淀」の写真が15.5cm装備時の最上型(鈴谷型?)になっていますヨ
     差し替えをお願いします。

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