「疾風」と「烈風」3

飛行第47戦隊「桜」隊(旧第3中隊)

大東亜決戦機「疾風」は急ぎ実戦部隊を組織して、押し寄せるアメリカ軍機を遮らんとします。大日本帝国最優秀戦闘機、とまで称されるその性能は見事に設計された機体にもありますが、奇跡のエンジン「ハ45/誉」のおかげもありました。

「誉」の毀誉褒貶

「ハ45/誉」は世界的に見てもその優秀さはトップクラスでしたが、残念ながら量産に入ると、マトモに性能をフルに発揮できない個体が多くなります。

その事情の一部は「紫電と紫電改5~エンジン~」で書かせていただきました。もちろん中島も不具合を放置するわけもなく、「寿」「栄」「護」などの各エンジンの開発で大きな実績をもつ荻窪製作所において関根技師長・小谷、中川両技師らの努力で、改良と改善を続けていました。

中川良一

中川良一

 

アメリカの2000馬力級エンジン「ダブルワスプ」(こいつがアメリカ代表で異論ございますまい)の直径が1321ミリ、重量1000キロ。対してハ45は直径1180ミリ、重量835キロとグッとコンパクトに造られていました。「鍾馗」や「雷電」(海軍の局地戦闘機)などに比べて、機首をずっと細くすることが出来ます。単純に「ダブルワスプ」と「ハ45」の正面面積を比較すると、3割くらい「ハ45」が小さいでしょう。

「誉」真横から

「誉」真横から
前後に並ぶシリンダーが良く判ります

これは空力的に大有利です(プロペラ回転面直後の前面投影面積は空気抵抗に結び付かない、って言う研究もあります)。

しかしながら、それは性能の安定や整備の容易さを犠牲にして成り立っていた、そんな批判は多いのですが。本当にそうなんでしょうか?

既に記事にいたしました冷却フィンの製造など、工夫を重ねても上手くいかなかった点も確かにありますし、実際に「疾風」の稼働率が低い部隊は沢山ありました。
ただ、並みの稼働率の飛行戦隊もちゃんとあります。これは何故なんでしょうか?

ミッドウェイの空母「飛竜」

ミッドウェイの空母「飛竜」

ミッドウェー海戦に続いてガダルカナル島の攻防、ソロモンを巡る海空戦と大日本帝国の旗色は悪くなります。大東亜戦争のうち、太平洋戦域で主力を担う海軍の「零戦」とベテラン搭乗員は徐々に消耗し、ついには陸軍機にも応援要請が出るようになります。

この過程なども、海軍の無責任さを絵にかいたようで興味深いのですが、別記事にいたします。

「疾風」、フライング・タイガースをビビらせる

福生で編成された「飛行第22戦隊」の「疾風」は、昭和18年8月から19年3月までに製造された83機もの増加試作機のうち、40機を当てていました。
大量の「増加試作」は2式単戦「鍾馗」でもやらかした陸軍のズルなんですが、一刻も早い大量生産と戦力化のためには有効でした。

ですから第22戦隊の各機は細かい部分が少しずつ違っていましたが、「ハ45」エンジンをはじめ、各所の機体装備が念入りに造られていましたので、稼動率に問題は起きていません。
戦隊には中島から機体・エンジン・プロペラの専門技師たちが派遣されて、ベテランのパイロットや整備員に技術指導を行ったことも良好な結果をもたらした一因だと思います。ココ、重要です(笑)パイロットにも整備の技術指導、ね。

「一体あれはなんだ!」
「まるで『サンダーボルト(P47戦闘機)』みたいだ」

P-47Dの編隊_1943

P-47Dの編隊_1943

昭和19年8月29日のことであります。支那大陸は岳州の上空はアメリカ第14航空軍・いわゆる「フライングタイガース」のパイロットたちの悲痛な無線が飛び交っていました。

「速い、『零戦』よりずっと速い。」
「コクピットに撃ち込んでるのに、ぜんぜん墜ちないぞ」

フライングタイガースは「B24」四発爆撃機が24機、「P40E」と「P51C」戦闘機併せて20機、「P38」双発戦闘機2機の戦爆連合で岳州を空襲したところ、大日本帝国の新型戦闘機に迎撃されたのです。

この日の空戦でフライングタイガースはP40が3機、P51は1機を撃墜されたうえ、P40とP51計5機とB24爆撃機4機を撃破されたのに、日本側に与えた損害は2機のみ。
翌30日も帰義という町の上空でP51を3機、9月12日、易俗河の南方でP40が3機も撃墜されてしまいました。

Curtiss_P-40

Curtiss_P-40

「フライング・タイガース」は大日本帝国の新型戦闘機の猛威に士気を阻喪してしまい、爆撃機の護衛も満足にできない状態となってしまいました。

恐怖が疑心暗鬼を生むのはアメリカ人も日本人も同じです。

衡陽漢口・新郷など、かなりの広範囲に出没する新型機の群れを見たフライングタイガースのシェンノート司令官は、
「支那戦線に出動してきている新型戦闘機は数個戦隊(150機以上?)」

クレア・シェンノート

クレア・シェンノート

と判断しました。成都から発進して大日本帝国の本土工業地帯を襲う「B29」戦略爆撃機がいずれその攻撃にさらされる、と考えたシェンノート司令官は現有の最強戦闘機「P51C型」の性能向上型「D型」の早期投入を本国に要請したのでありました。

歴戦のシェンノート司令官をビビらせた一連の戦闘こそ、大東亜決戦機「疾風」のデビュー戦でありました。

「飛行第22戦隊」はフィリピンに進出する予定だったのですが、支那大陸にアメリカ第14航空軍のP51・P47などの有力な新型戦闘機が出現していました。

P51イラスト

P51イラスト

支那派遣軍から対策として「第22戦隊を一時転用されたし」との要請があり、8月21日に相模原を出発して28日に大場鎮空港に到着。翌日の29日には早速出撃して大活躍したのです。

7月上旬にはサイパン島を奪取し大日本帝国の「絶対国防圏」を突き崩していたアメリカに、一時的ではあっても冷や汗をかかせてやった快事でした。

さらに9月には広東基地の飛行第85戦隊も「疾風」に改変されました。
飛行第85戦隊に与えられた「疾風」の機体は、昭和19年3月から6月まで作られた2回目の増加試作機(大量生産向けに小改修)42機と4月から開始された制式生産のごく初めの一部だったと思われます。

これらの機体はやはり手入れよく造られていた為か、まだ稼働率が問題になることはありませんでした。

稼動率、40%を割る

ところが昭和19年の秋以降に生産ラインを出るようになった「疾風」から稼動率の悪化が深刻な問題になって参ります。

飛行47戦隊旭隊の「疾風」

飛行47戦隊旭隊(第一中隊)の「疾風」

 

その原因は部品不足・材質不良・徴用工による工作不良など機体の問題がありました。熟練した工員さんを一般兵科に召集し、代りに学徒動員した徴用工を飛行機の製造にあたらせる、などは行政の不手際ってモノではないでしょうか?
油温上昇・点火栓故障・潤滑油洩れなどのエンジン・トラブルもありました。燃料の質の問題がそれに輪をかけているのです。

各戦隊の「疾風」の稼動率は良くて40パーセント、悪いところだと20パーセント。もっとも技術力の高い筈の明野飛行学校でさえ、40パーセントの稼働率だったと言います。

陸軍明野飛行学校の九七戦

陸軍明野飛行学校の九七戦
尾翼のマークが「明」の図案になっています。

しかしこの時期、この状況下で「飛行第47戦隊」の「疾風」は実に87パーセン卜という稼動率を弾きだしています。

「飛行第47戦隊」は昭和16年11月、まだテスト中の二式単戦「鍾馗」の増加試作機9機で編成された「独立飛行第47中隊」、別名「かわせみ部隊」が発展した部隊ですから、中島の技術的援助を受けやすいと言う利点があったのだと想像することは簡単です。

私も、そう思い込んでいた時期が長かったのですが。

「疾風」は飛ぶようにできている

「飛行第47戦隊」の整備隊長は昭和19年1月から9月まで松本公男大尉が、その後敗戦まで岡田作三少佐が務めたのですが、その下で整備指揮班長だった刈谷正意中尉のウデがトンでもなく優秀だったのです。

と言ってしまっては真実を見落としてしまいますね。刈谷中尉はウデも凄かったのですが、本当に優秀だったのはその「考え方」だったのです。
現代の我々から見ると当然のような整備なのですが、当時の大日本帝国として考えると非常に進歩的かつ効率的な整備を実現していたのであります。

昭和20年2月16日、アメリカ機動部隊の艦載機が関東地区に来襲しました。

F6Fヘルキャット

F6Fヘルキャット

成増基地の飛行第47戦隊は26機をもって迎撃。群馬県太田市の上空において空戦を展開して、グラマンF6Fを16機、カーチスSB2C「ヘルダイバー」2機を撃墜の戦果を挙げました。
群馬県太田市の中島工場では「疾風」の増産が続いており、「故郷に錦」の勝利・産みの母を守り抜いた空戦となったのです。

ヘルダイバー降下に入る

降下に入るヘルダイバー

この勝利で飛行第47戦隊は4機を失ったのですが、故障で途中から引き返した機体はありませんでした。戦隊の「疾風」がよく整備されていることが察せられます。

飛行第47戦隊はこの機動部隊を攻撃するために、30機の編成で大阪の佐野飛行場に展開します。佐野飛行場では第16飛行団の三個戦隊90機とともに作戦行動を行いました。
一ヶ月間の共同作戦中、第16飛行団の90機の「疾風」の稼動率が30パーセントだったのに対して、第47戦隊は稼動率実に100パーセント。

この稼動率は本当であろうかと、陸軍兵器部が実態調査に乗り出すほどの衝撃だったようです。そりゃそうでしょう。出先の基地で、ですよ。100パーセントの稼動率なんて現在のアメリカ軍や自衛隊だってほぼムリです。
実態調査の結果、第47戦隊の整備隊技量抜群の故の稼働率、と結論付けられました。

素晴らしい成果は水平展開しなければいけません。陸軍は昭和20年4月26日、四式戦闘機「疾風」を保有する全航空戦隊の整備隊長全員を成増の第47戦隊に集め、整備研修会を実施しました。この研修会の講師を務めたのが刈谷中尉でした。

飛行47戦隊富士隊の「疾風」

飛行47戦隊富士隊(第二中隊)の「疾風」

『疾風』は飛ぶようにできている。これを飛ばせないのはおかしい!」
階級が上(整備隊長は大尉・少佐級)の人たちに刈谷中尉は叫んだのでありました。

整備隊長の怠慢?

刈谷中尉の言葉は過激さを増していきました。

「『疾風』が飛ばないのは整備隊長の怠慢であり、エンジン不調のせいにするのは責任逃れだ。完全無欠な飛行機は望むべくもないが、整備技術でカバーできるはずだ。飛ばそうとする熱意があれば、稼動率を倍に跳ね上げられる」

各整備隊長は実績十分の中尉に説教されても文句は言えず、飛行第47戦隊の整備システムを学んで帰って行ったのであります。

この研修会は、しかし皇土の防空には少し遅過ぎたようです。四式戦「疾風」全体の稼働率は、ついに敗戦まで際立った上昇を見せることはありませんでした。

飛行第47戦隊は、刈谷中尉はいったいどんな整備をしていたのでしょうか?
各飛行戦隊の編制を見ると、この時期には「中隊」が廃止されていました。それに伴って各中隊に付属していた「整備班」は「整備小隊」と呼ばれるようになって、戦隊本部隷下の整備隊本部の指揮を受けるようになっていました。

飛行第47戦隊の整備隊本部は他の飛行隊のどこにもなかった2つのシステムがありました。

疾風vs.P51

疾風vs.P51

一つ目が「整備指揮小隊」です。この小隊は全般の技術的指導や監督・各整備小隊間の繁忙時の応援などのコントロール・対外連絡・資料の作成と収集などなどを担当していました。
戦隊の整備全般のマネジメントに当たっていた、と言っても良いでしょう。

もう一つが「第4整備小隊」です。飛行戦隊は通常3個中隊(廃止されていましたが、実際の運用上や呼称として残っていました)編制です。整備小隊も3個が普通なんです。
飛行第47戦隊では優秀な整備兵を選抜して「第4整備小隊」を作り、日々の作戦からは独立して故障修理に当たらせたのです。手のかかる故障機や重大な損傷の機体を迅速に戦列復帰させることが出来るようになりました。

第1から第3までの整備小隊も他の戦隊とは整備方法が違っています。新しい機を受領すると、さっそく整備点検を始めます。30時間飛行して異常が無ければ、戦闘に出します。
戦闘参加後は20時間ごとにエンジンをチェックし、80時間でプラグを交換、400時間でオーバーホール。徹底した時間点検を行なっていたのです。

疾風構造図

疾風構造図

この時間点検を行うことがOJTの効果も生み、エンジン・プロペラの換装など、わずか2時間で行なえるようになり、各種作業の精度も飛躍的に高くなっていたそうです。

忙しく時間管理された整備をこなすことが、自然にトレーニングとなったほかにも整備員への教育は徹底していました。
各整備小隊長は整備隊長が打ちだす教育実施計画に基づいて、毎日の教育実施結果を整備隊長に報告しなければいけませんでした。
幹部整備員は隊長からの教育を毎週一度(あるいは適時)受講し、課題へのレポートの提出が義務。

こうすることで、整備員の異動や戦闘で損失を受けても整備の質を維持出来るように配慮していたのです。

パイロットも整備情報の提供をしなければならない仕組みになっていました。

敗戦時の4式戦片矢印第85戦隊、菊水第22戦隊

敗戦時の「疾風」
片矢印は第85戦隊、菊水が第22戦隊所属機

戦隊長以下の全パイロットが整備の研修を受けていて、飛行中に発生した自機の不具合はデータ付で整備員に提出するように命じられていました。
陸軍では、最前線進出時などには搭乗員も整備を行っていた伝統はあるのですが、ココまで整備に協力する搭乗員はちょっといませんね。

刈谷中尉、戦後も吠える

刈谷中尉は整備も達者なら口も(というか筆も)達者な人だったようで、戦後も「ハ45/誉」エンジンの擁護を続けています。

『油圧の低下や燃圧振れはポンプ吸入側の空気吸い込みが主原因であるのに、これを修治せず放置するとエンジン内部故障になり(中略)「誉は直ぐに故障する」となるが、それは自己の怠慢を天下に公表しているようなもの』と言っているのです。
「ハ45/誉」の整備にあたって『秘策はなく定時点検整備を、時間管理票に従ってマニュアルに少し手を加えて行う』ことだけで『稼働率100パーセントを維持』した、というのです。
実際の記録でも、飛行第47戦隊は定数外となる大損害機の修復を入れても87パーセントの稼働率を敗戦のその日まで維持しているのです。

刈谷に言わせれば「47戦隊で100パーセント働いた」エンジンが他部隊で動かなかったのは「日本陸軍の整備教育が間違っていたから」で、「疾風(誉)のせいじゃない」となります。

液冷エンジンの「アツタ」も稼働率が低く、整備もやり難いと言う「誉」と同じ悩みがありました。海軍の機体ですが、「アツタ」を搭載した彗星艦爆も稼働率の維持に悩まされた事で有名です。

ところが、不稼働機として放置されていた「彗星」を拾って?きて主力とした「芙蓉部隊」は高い稼働率の維持に成功しています。
「芙蓉部隊」が高稼働率を実現したのは整備が徹底されていたからだと考えられています。「芙蓉部隊」も書いてみたいネタですが、ココでは飛行第47戦隊と刈谷中尉のお話の傍証とだけしておきます。

「彗星」

「彗星」

 

「疾風」の奮闘でも大日本帝国の敗勢は蔽いようがなく、アメリカ軍は沖縄に上陸。ついに本土の一角に喬敵の魔手が迫ったのであります。
飛行第47戦隊は都城西飛行場に前進していました。5月27日、戦隊は約50機の「疾風」で沖縄への特攻機の援護・進撃路啓開に当たったのですが、飛行場大隊の兵が不思議そうに聞いたそうです。

「あなた方の隊では整備をしないのですか?他の戦隊だと、出発しても途中から続々と引き返してくるんですよ。ところが整備しないのにあなた方の隊は、全く引き返してこない。おかしいですねえ。」

大日本帝国の航空隊がすべて、「疾風」を装備して管理された整備を心がけていたら。

P38空戦イラスト

P38空戦イラスト

 

昭和20年8月14日。第47戦隊の「疾風」8機編隊は、P38「ライトニング」6機と豊後水道上空で交戦となりました。「疾風」は「ライトニング」4機を撃墜して大日本帝国陸軍戦闘隊として最後の勝利を得たのであります。

もう一度言うと「疾風」は飛ぶように…

「ハ45/誉」は製造上の問題(「紫電と紫電改」に書きました放熱フィンとか)もあり、整備も精巧な造り故に難しいところもあったエンジンでした。

しかし、このエンジンを装備することを前提に開発された「疾風」は大東亜戦争末期の圧倒的高性能なアメリカ機に十分対抗できる唯一の陸軍戦闘機になりました。
いや、アメリカ軍の評価では海軍の紫電改を上回って「大日本帝国最強戦闘機」の称号を奉られる事さえあったのです。

烈風

「烈風」はついに帝国の防空に参加出来なかった

一方の海軍と三菱と「烈風」はついにアメリカ軍機と相まみえることはありませんでした。「疾風と烈風2」で書いたように、海軍の余計な口出しもあり、提供されていたエンジンの不調もあり、止むをえない部分は確かにあります。しかし、「疾風」が「ハ45」で飛ぶようにできるなら、三菱とその設計者たちにもできた筈。

何故、こんな事になってしまったのか?次はそこを探ってみたいと思います。

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「疾風」と「烈風」3” に対して2件のコメントがあります。

  1. パッカード より:

    よく「誉」と「P&W(USA製)」を寸法・重量・正面面積など比較していますが速度を優先したければ液冷ENGを採用すれば良い話では?「誉」と「P&W」を比較して前者が多少コンパクトであってもそれは圧倒的機体性能の優位には働きません。疾風も本来USA製空冷戦闘機と比較対象にするべき機種はF8F、F4U、P47では?ベテラン操縦士の消耗が激しくなければ零戦52型でF6Fは十分対抗できたとおもいます、べテランでなくとも中堅でも。燃料オクタン価、オイル・プラグ・シールパッキン・冷却系統機器・整備器量・・・上辺の机上の空論から脱せなかった日本旧陸海軍航空隊の思考・組織の敗退でしょう。実際に空戦したら疾風よりF8Fが優位だったと判断します。

    1. あかさたな より:

      うーん疾風よりF8Fのが有利ってのは実は微妙なところでF8Fってターンファイターだと誤解されがちだけど実際は翼面荷重200kg/m^2近いから疾風より旋回性能は低くなるだろうしパワーウエイトレシオもF8Fが2割ほど上だけどアスペクト比が低いから結局エネルギー保持率も同程度一応加速はF8Fの方が有利だろうけど上昇も互角だからゆーて総合的には両者の性能は対して変わらない
      あとF8Fが出てくる頃には誉の運転制限も無くなっているだろうしなんなら誉42型を積んだ疾風が出ている可能性もないこたあ無い
      一応数の差でF8Fが有利かな

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