帝国海軍燃料事情・・・松根油

空の神兵

大東亜戦争下の大日本帝国について、「資源が不足する中で人的資源だけは不足してなかった、特攻はその有効利用だった」…などと言う大愚論があります。

大東亜戦争の戦争目的

このようなアフォ論は左側ばかりでなく、コッチ側からも出たりするのが悲しい限り。
たとえば「大東亜戦争は日本の勝利」とか抜かす安濃芋博士なども「まだ帝国本土に400万の兵士が」とかほざいております。
まあ、あ奴等は「コッチ側」とも言いえぬけれど、コッチ側(になりそうな)の人が騙されたりするからなぁ。

そもそも大東亜戦争は、支那市場の支配を目指す米国によって我が国への石油輸出が止められ、その代替供給先を確保するための戦争、と言う意味合いが強い…と言うのが歴史を虚心坦懐に眺めれば「真っ当な理解」ってモノでありましょう。

いかん、この記事は安濃芋をオチョクルのが目的じゃない。元に戻ります。

民間で使う(ほぼ工業用)分も含めて、当時の大日本帝国が使う原油の量は、それほど多くはありませんでした。
オランダが持つ蘭印・パレンバンの油田一つで、当時の大日本帝国が(戦争も含めて)消費する石油を賄うだけの産出量があったのです。

帝国軍は、緒戦でそのパレンバンの油田を抑えることに成功します。その上、「空の神兵」などの活躍もあって精製設備なども無疵で手に入れています。

原油の精製過程は技術面の立ち遅れもあって、帝国がパレンバンを押さえても燃料供給のネックになるんじゃね?と思われていたのです。
最新の設備を無傷で抑えられたのは、戦争継続・勝利への大きなアドバンテージになる筈であります。

ところが、帝国海軍はこの石油を本土に安全に送り届けることに、ほとんど無関心であったように思えます。

この辺りは電脳大本営の「帝国海軍は護衛が大嫌い」シリーズでお読みいただけると幸いであります。

海軍に言わせれば、「東郷元帥以来の伝統で、艦隊決戦に勝利する事こそ海軍の使命である」ってなことになりそうでありますが、時代は総力戦の流れでありまして、海軍もその研究は進めていました。

つまり、正面で敵と戦いながら、銃後では戦力を増強し続けなきゃ勝利は望めないのであります。

それなのに、何故安全に工業地帯たる本国に資源を届けようとせんのか?私には全く判りませぬ。

能登呂型給油艦

海軍の保有するタンカーは艦隊への給油専門で、国内への重油輸送には使われませんでした。
能登呂型給油艦

この当時の優秀タンカーは全て海軍が保有しておりました。その優秀タンカーは艦隊随伴か根拠地への輸送だけが任務。鉄鉱石などの資源とあわせ、石油の輸送も独航商船に任されていたのです。

戦況が有利なうちはまだ表面化しなかったのですが、徐々にタンカーを含む商船が米潜水艦によって撃沈されるようになります。

そして1944年になると、たび重なるタンカーの喪失で南方からの石油輸送は激減しました。

って言いますか、大日本帝国のシーレーン(当時はそんな言葉は無かったでしょうけれど)はズタズタにされてしまっていたのです。

人造石油

このころになって、大本営は本土で原油生産の見直し(増産)を試みますが、石油産業の技術者は南方(パレンバンなど)に派遣されており、掘削機などの資材も送られていて、増産は進みませんでした。

技術者が足りないんですよ、人がいないんです。どこが「人的資源は不足していない」のか?安濃芋め(;´д`)トホホ

また、人造石油(石炭油化・オイルシェールなど)の生産量も計画の僅か10%程度で低迷していました。

人造石油7カ年計画と実績(単位=1,000キロリットル/年)

 
年度 計画 実績 %
昭和12 87 5 6
昭和13 146 11 8
昭和14 489 21 4
昭和15 930 24 2.5
昭和16 1,243 194 15
昭和17 1,807 238 13
昭和18 2,233 272 12
7カ年計画計 (6,935) (765) (11)
昭和19 220
昭和20 46

 

『現代日本産業発達史ーⅡ石油』より

満鉄が比較的順調に生産していた、オイルシェールからの人造石油も、朝鮮海峡が米潜水艦の脅威にさらされるようになり、輸送が途絶えがちとなります。

松の根っこからガソリン

この逼迫した状況のなか、ドイツの駐在武官から朗報がもたらされました。曰く、

「ドイツでは松の木から航空燃料を生産している」

出撃準備中の零戦52型丙(A6M5)

出撃準備中の零戦52型丙


この情報に海軍は「水からガソリン」詐欺に引っ掛かりかけた過去も忘れて飛び付きます。

持てるリソースを総動員して、パレンバン~九州のシーレーンさえ守ってれば、苦労する必要は無かったのに。
徹頭徹尾、護衛が大嫌いな軍令部は海軍軍需局や海軍燃料廠を急き立てるようにして、この情報を検討します。
あげくに農商務省の山林局やら林業試験場まで巻き込んで
「松根油からガソリンを製造する事は可能である。国内松林から100万リットルが採れる。」
との報告を上げるんであります。

すると、何時でも革新的技術に懐疑的な陸軍も「富士の裾野に油田詐欺」をコロっと忘れて、ついつい同調してしまいます。

帝国陸軍は海軍の意見をたびたび疑問に思うのに、結局は同調してしまう…という悪癖があります。コレは癖では済まない重大な教訓を含んでおります。

「経験に裏打ちされた直感はだいたい正しい」
ってことでありますよ。このあたりはちゃんと検証して貴重な戦訓としなければいけません。

勤労動員と供出の果てに

こうして「松の根っこから油を取る企画」
は昭和20年3月には「松根油等拡充増産対策措置要綱」として閣議決定され、国の正式な計画となりおおせます。

この年の松根油生産予定は42万キロリットルとされました。

松の木200本分の燃料で飛行機が1時間飛ぶ、とされたのです。

*零戦52型は燃料満タンで570リットル、巡行時消費70~80リットル/時・4式戦疾風なら巡行時消費100~120リットル/時で、空戦時の燃料消費量はこの3倍以上になります。

敗戦時の4式戦

敗戦時の4式戦
片矢印マークが第85戦隊、菊水マークは第22戦隊、
後列は一式戦です。

現代の我らから見ますと、
「松の根っこから油なんか取れるのかよ?」
ってなモンですが、戦前には、松根油は塗料原料や選鉱剤などとして利用されており、専門の松根油製造業者もあったのです。

ただ、その生産量は6,000キロリットル/に過ぎませんでした。それを42万キロリットルに増産です。

松根油の製造には、老齢樹を伐採して10年ほど経過した古い伐根が適するそうで、収率は20%~30%(たぶん重量)とされていました。

ちょっと想像すればすぐに判ることですが、伐採されて10年も経った松の根を掘り起こすには大変な労力が必要になります。根っこを人力で掘り返すのは10年経たんでも重労働だけど。

そもそも、そんな松の根っこがいっぱいあるモノか?って疑問も湧き上がってまいります。

今の様な良くできた土木機械が豊富に有るワケありませんし、少ない機械は山中(だと思うぞ)の根っこ掘り現場には回ってきません。
そういう時は国民に勤労奉仕が求められるのでありますが、松根油にはのべ4000万人が動員されて、山中の松の根を根こそぎ掘り起こしたのです。

掘り起こした松の根は、乾留(空気を絶って蒸し焼きにする)するワケですが、そのための釜も足りませんでした。

鉄が不足するなか、家庭から鉄器が供出され、20年6月までに3万~4万個の乾留釜が生産されました。なお、釜の生産数量には史料によって食い違いがあります。

努力の方向が違うと

こうした努力によって昭和19年度で14,000キロリットル、昭和20年度(4月~8月)には40,000キロリットルの松根油が生産されたのです。
*「日本海軍燃料史」によれば合計20万キロリットル。

多大な犠牲の上に生産された松根油だったのですが、残念なことに、このままでは零戦や疾風に入れられる燃料ではありませんでした。

善峯寺遊龍の松

善峯寺の「遊龍の松」 このデカい松なら、タップリ採れる?

 

飛行機のエンジンをうまく回すためには、次のような工程がさらに必要だったのです。

出来た松根油を、いったん各地の第一次精製工場に持ち込んで、軽質油とその他の成分に分けてやります。
このうちの軽質油を、さらに第二次精製工場に送って水素添加処理を施し、他の成分も加えて「航空揮発油」にしなければいけなかったのです。

第二次精製工場は海軍第二燃料廠(四日市)と第三燃料廠(徳山)とされました。
しかし四日市は空襲の被害が激しくて、最終製品(航空揮発油)の製造が出来ませんでした。
徳山でも1945年5月14日から生産を開始して500キロリットルほどが完成しただけでした。

海軍第二燃料廠(四日市)

海軍第二燃料廠(四日市)

国民みんなに苦労をかけ、やっとの思いで松の根っこから造られた「航空揮発油」でしたが、ここまできてもまだ「品質良好」とはなりませんでした。

エンジンに対してもテストと調整が必要だったのです。

戦後に進駐してきた米軍がジープにそのまま入れてみたのですが、2~3日でエンジンが掛らなくなった、とされています。
このような品質では、貴重な戦闘機においそれとは使えるワケがありませんものね。

結局、松根油から航空用のガソリンを製造するだけのノウハウが、日本には無かったと言うことなのでしょう。

原油からですら、高オクタン価の高性能ガソリンを製造出来なかった国に、「松からガソリン」はとてもムリだった、と言うことです。クソ、時間がなかっただけなんだよ。

海軍の不明

そもそも、松の木の根っこ200本分から採った「松根油」で飛行出来るのが1時間ですから、一本の松では18秒しか飛べないことになります。

これではバイオマスとしての効率にも欠け、再生産性はほぼゼロと言って良いでしょう。
松の根を掘り起こした国民の体力を他に回す…とか考えないでも、コスパが悪すぎるんです。

さらに乾留のために燃料を使いますし、水素も添加しなくちゃいけないんですから、全く無駄なことをしたものです。
水素の製造って、SDGsがどうのこうのと煩い現代でもエネルギーを大量に使っちまうか、天然ガスなどの改質しかないからな。

北欧の敬語の使い方も知らん、学校さぼってばっかりの、ぐれた基地外娘に「水素の作り方」を指南して貰いたいもんだw。
「原子力発電の電力で…」とか言うかも知れんぞ(笑)まあ、水素の作り方なんぞ知らんだろうけどな。

閑話休題。

勤労奉仕で松の根っこを掘り起こした方がたは、食糧難の中で真摯に国の為に戦って下さっただけに、余計に悔しいじゃありませんか。

『米国戦略爆撃調査団報告』では、この帝国の松根油計画を評して
唯一の影響は日本が労働力と装置の不足している最中に、その双方を奪い取ったこと
などと抜かしています。

もちろん国の存亡がかかっていますから、不経済であったり、自然破壊につながったとしても一概に批判したり否定したりすることはできません。

しかし、このような無駄な努力をせざるを得なくなってしまった、その原因は追求しておかなければなりません。

1936年の第二水雷戦隊の諸艦すべて特型てまえ東雲

この優秀駆逐艦群で、戦艦の代わりにタンカーを護ってたら?
昭和11年度の第二水雷戦隊。すべて特型です。

その原因とは、大東亜戦争の真の目的である「石油資源の確保」(とその先にある「帝国の存続」)を見失って、艦隊決戦を求め続けた海軍の不明にある、と言うのは言いすぎでしょうか。

海軍の不明は、さらに帝国の領土を蝕みました。
戦後、昭和20年代後半には台風・豪雨などで各地で土石流による被害が頻発して、松の根をむやみに掘り起こした報いを受けることになってしまったのでありました。

現在、帝国海軍と同じように、いや、それ以上に大東亜戦争の目的を見誤っている安濃芋博士。

帝国海軍以上に日本に不幸をもたらさないうちに、お考えを改めるべきでありましょう。

××は死ななきゃ治らんから、言うだけムダか。それとも「ご笑売」だからやめるに止められんか。

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帝国海軍燃料事情・・・松根油” に対して2件のコメントがあります。

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