ペロ8か双胴の悪魔か~ライバルたち1~

P38

昭和18年4月18日の朝、ブーゲンビル島上空で6機零式戦闘機に護衛された2機の一式陸攻が撃墜されました。護衛の零戦も3機が墜とされました。

P38じゃ無ければ

ご存じの「海軍甲事件」、山本五十六連合艦隊司令長官機の撃墜事件であります。
山本長官は「い号作戦」の成功裡(実相は殆ど効果がなかった航空撃滅戦)の終了を受けて、前線将兵を激励すべくブーゲンビル島のブイン基地に向かっていたモノでした。

この極秘行動の暗号通信をアメリカの戦闘情報部隊が傍受し、解読してしまっていたのです。

アメリカ軍は慎重に山本長官の「暗殺」の影響を考慮したらしく、しばらくの逡巡のあと、「待ち伏せ」を決断し、18機ものロッキードP38「ライトニング」戦闘機で攻撃することにするのであります。

この間の事情は良く知られていますので、今さら電脳大本営で取り上げることも無いでしょう。
ただ、この襲撃に使われた戦闘機について、少し考えてみたいと思います。

P38空戦イラスト

P38空戦イラスト

「P38・ライトニング」の航続距離は3900キロもありました。当時のいかなる単座戦闘機も及ばない数値で、この性能と高速性能が山本長官機を撃墜するのに役立ったわけです。

実は、これ以前のアメリカ陸軍は第二次大戦で活躍できるような戦闘機(アメリカ陸軍的には追撃機=pursuiter)を持っていませんでした。
この頃の陸軍航空隊の主力戦闘機はP-35やP-36といった性能の大して宜しくない戦闘機を使っていたのです。後の航空機王国がなんとしたことか!ってなモンですが、戦争の脅威を直接に感じていなければどこの国でもこんな物でしょう。

しかし、アメリカ陸軍航空隊用にボーイング社がB-17戦略爆撃機の開発を進めている時でありました。
自分が持てば、敵国もそれに対抗しうる兵器を開発することは当然予測しておかねばなりません。

B-17-bomber

B-17-bomber

アメリカとしてはB-17を迎撃出来るだけの戦闘機を保有する必要に迫られたのです。

設計開始

1937年の2月、アメリカ陸軍航空隊は航空機メーカー各社に対して単座の高々度防空用迎撃戦闘機の開発を命じます。

この時の要求は最高速度が640km/時でP-36(500km/時)より140km/hも速く、上昇力は高度6500mまで6分以内、20mm機関砲を装備する、とされていました。

この要求に対して各社各様に設計案を提出するのですが、陸軍航空隊が受け入れたのは2件だけでした。
ベル・エアクラフト社のモデルB-4(後のP-39)と、それまで旅客機ばかり作って来たロッキード社のXP-38であります。

P39エアラコブラ

P39「エアラコブラ」

 

「XP-38」は高速力を出すために、エンジンを2基搭載し双胴機の設計となりました。いや、実際には3胴なんですがここは一般の呼称に合わせて双胴って事にしておきます。
中央胴にパイロットが乗り込むんですから、3胴に決まってるんですけどね(笑)

P38の設計者クラレンス・ジョンソン→とホール・ヒバート←

P38の設計者クラレンス・ジョンソン→とホール・ヒバート←

 

爆撃機を迎撃するのが目的ですから格闘戦向きに運動性を良くする、なんてことは考えず高速で重武装であることに重点がおかれました。

双胴機ですから方向舵は2枚あり、昇降舵は2枚の方向舵の間に取り付けられました。降着装置は前脚式。
エンジンは離昇出力1150馬力の液冷V型12気筒の「アリソンV-1710-29(右)」と「アリソンV-1710-17(左)」を採用。エンジンは左右で回転方向が逆(どちらも内廻り)配置されて互いにトルクを打ち消すようになっていました。
高高度用戦闘機でありますから、排気タービン過給機を搭載しています。

P38計画のスタイリング

P38計画のスタイリング案

武装は25粍か23粍機関砲1門と12.7粍機関銃4挺を機首に装備する予定(実機は未装備)で、中央胴機首にエンジンもプロペラないために当時の戦闘機としては特別に強力でした。

こうして「XP-38」は全備重量が6,200kgにも達する翼面荷重の高い高速戦闘機となりました。「XP-38」の設計は終了。
1937年6月、陸軍と契約が交わされて試作機「XP-38」の製造が始まったのでした。
奇抜なデザインを危惧するむきもありましたが、わずか1年半で完成しています。「軍用機初心社」のロッキードだけに練り上げた設計だったことが判ります。

「XP38」の自重は約5トン・全備重量は実に6.2トンにも達し、これを面積30㎡の主翼で支えているわけですから、翼面荷重は200㎏/㎡を越えています。

97式戦闘機

九七式戦闘機

当時の列強の戦闘機は日本陸軍の「九七式戦闘機」で88㎏/㎡・イギリスの「スピットファイア」120㎏/㎡・ドイツの「Me109」150㎏/㎡・アメリカのカーチス「P40」が170㎏/㎡ですから、XP38は世界最高レベルの翼面荷重の戦闘機でありました。

翼面荷重が高い事は速度を上げやすい反面、操縦性能は上げにくくなります。クルマで言えばアメリカ人好みの「直線番長」に向いているワケですが、離着陸も難しくなります。
そのためロッキード社は離着陸を容易にしようと、旅客機の「スーパーエレクトラ」で採用したファウラー・フラップを取り付けることにいたしました。

フライングタイガースのP40

フライングタイガースのP40

このファウラー・フラップで離着陸性能は良くなりましたが、「空戦フラップ」としても使えることが後に判ってきます。

故障が頻発しても

1938年12月31日、「XP38」はロッキード社のバーバン工場からロールアウトいたしました。
この時、某国のスパイが同機を盗み撮りしたり、もぐり込んで調べようとしている、という情報があり厳重な警戒態勢がとられています。

「XP38」の情報は雑誌などで大日本帝国でも知られており、海軍の航空関係者などは
「こんな大型で運動性の悪そうな戦闘機はライバルにはなり得んね」
とかホザいてたくらいですから、スパイが調べるほどの秘密があったとも思えないんですけど、アメリカ側も敏感に反応して防諜態勢を厳にしてたんですね( ´艸`)

ロールアウトするとすぐに「XP38」の機体は3つに分割され、三台の卜ラックに分載されます。トラックの荷台はキャンバスでびっしりと覆われ、物々しい警護のなかをリバーサイド市のマーチ飛行場に輸送されたのでした。

マーチ飛行場で再び組み立てられた「XP38」がプロペラを回して地上滑走テストを始めた時でした。何故かブレーキが故障して機体は側溝に落ち、一部が壊れてしまいます。

マーチ飛行場のXP38

マーチ飛行場のXP38

 

この修理にしばらくの時間がかかり、初飛行に成功したのは1月27日。
この初飛行中に、こんどはフラップが故障して展張できなくなりました。
テスト・パイロットのベンジャミン・ケルゼイ中尉はフラップを引っ込めたまま、揚力を増加することが出来ないままで着陸を強いられてしまいます。
つまりケルゼイ中尉は機速を落とさないままで着陸したのですね。

相続くトラブルで「XP38」の将来は暗雲に包まれるかに見えたのですが。

初飛行から15日後の2月11日。ケルゼイ中尉の操縦する「XP38」はマーチ飛行場を出発。途中テキサス州のアマリロ飛行場・オハイオ州のライト飛行場に着陸・給油して、ニューヨークのミッチェル・フィールドまで、3900キロを7時間2分で飛行いたしました。
この間の平均時速545キロ、最大速度は675キロ/時。

ヒューズH1

ヒューズH1

 

2年前にハワード・ヒューズの「H-1レーサー」がアメリカ大陸横断の記録を作ったときの時間が7時間28分25秒、平均518キロ/時。
「H-1レーサー」はその名の通り量産を考慮していない「競技用」ですし、大陸横断チャレンジのために改修もしていましたから、「XP38」の速度のトンでも無さが判るではありませんか。

ただ、この時も着陸態勢に入るとエンジンがとつぜん停止しています。「XP38」は滑走路手前のゴルフ場に突っ込んで機体を大破しているのですが、圧倒的な高速の前に頻発する細かなトラブルはもはや問題ではなくなっていました。

陸軍は1939年4月27日、ロッキードに13機の増加試作を注文したのであります。増加試作分は「YP38」と呼ばれ、ココからさまざまなP38の発展型が造られていくことになります。

風洞実験中のYP38

風洞実験中のYP38

「XP38」の初飛行は日本海軍の一二試艦上戦闘機・後の「零戦」の試作機の初飛行に先立つことひと月、陸軍の一式戦「隼」の試作機初飛行にはふた月の遅れ。まさにライバルの誕生でありました。

欧州戦線

ミッドウェイで大日本帝国海軍の怒涛の勢いを喰いとめたアメリカは新編成の「第8航空軍」をヨーロッパ戦線へ送ります。
後に「マイティ・エイス(Mighty-8th)」と信頼されるようになる、ドイツ打倒の立役者でありますが、その中に新鋭戦闘機「P38」(F型)も含まれておりました。その数がなんと164機だって言いますから、アメリカ恐るべし。

ヒトラー総統の対米宣戦布告は絶対に戦略ミスですわ。
日独伊三国同盟には、コチラから仕掛けた戦争への自動参戦義務はありませんからね、大日本帝国がハワイを襲おうがフィリピンでマッカーサーを追い詰めようが、勝手にやらせとけば良かったんですよ。

真珠湾攻撃イラスト

真珠湾攻撃

 

私がココでこんな判り切った事を言うのは、
「大東亜戦争はアメリカが欧州戦線に参加したくて、日本を挑発した謀略によるモノだぁ!」
論者さんが此処の所にはちっとも触れてくれないからです。

日本が戦争を仕掛けてきたって、ドイツが「アメリカも敵や!」って言ってくれる保証なんかどこにも無かったんですからね。こういう基本を押さえずして論を展開しちゃあ、イケません。まあ、ほとんどの陰謀史論なんてこの程度のモンです。

閑話休題。

164機のP38Fは119機のB17爆撃機や103機のC47輸送機とともに、カナダのラブラドールを出発してグリーンランド・アイスランドを経由、1942年の8月にはイギリスで展開完了。航続力の長さが光りますね、ココでも。
その後も増強は続き、イギリス本国に展開する米軍機は年末に882機になり、翌43年3月には2800機(戦・爆合計)と急成長。

YP38

YP38

 

まずは北アフリカで名将ロンメルを追い詰めるのに一役買います。

ドイツアフリカ軍団にはヨアヒム・ミュンヒェベルク少佐やハンス・マルセイユ大尉らが「P38」を待ち構えていました。

「P38」の空戦能力は高度4500~5000メートルを上回れば、「アフリカの星」たちの駆るFw190やMe109に勝るとも劣ることはありませんでしたが、敵は歴戦のエースたち。

一方のアメリカ軍パイロットは技量面ではやや見劣りして、功を焦ってもいました。巧みに低高度に誘われて餌食になることが多かったと言われています。
それでも「中央胴」の先っぽに装備した20粍機関砲一門と12.7粍機銃四丁と、900㎏爆弾2発を搭載できる余裕は地上攻撃に大きな威力を発揮しました。

増槽左と1000ポンド爆弾を

増槽左と1000ポンド爆弾をぶら下げたP38F

Ju52のような輸送機、He111やJu88のような爆撃機は「P38」の良い獲物だったようです。
イタリア半島やルーマニアなどへの爆撃作戦ではP47「サンダーボルト」やP51「マスタング」などの新鋭機が登場してくるまで、「P38」が護衛役を一手に引き受けていました。

また写真偵察タイプの改造型(F5、サン・テグジュペリが撃墜されたときの乗機として有名ですね)はイタリア全土の80%以上を撮影しており、ローマやナポリへの爆撃では爆撃目標の選定に貢献しています。

20ミリを被弾したF5(写真偵察タイプ)

20ミリを被弾したF5(写真偵察タイプ)

 

こうして「P38」は欧州戦線で「双胴の悪魔」と呼ばれるようになるのであります。

大平洋戦線

ロッキードP38「ライトニング」戦闘機がその怪異な姿を太平洋戦線にあらわしたのは、昭和17(1942)年も暮れようとする頃でありました(G型、この年の8月から引き渡し開始)。

当初、日本側では「P38」の運動性の悪さに軽蔑の眼を向けていたようです。ベテラン搭乗員たちは「ペロリと喰える三八」だから「ペロハチ」と呼んで馬鹿にしていたそうです。

ところが、この時ニューギニア・ソロモン戦線のアメリカ陸軍航空隊には才能あふれるパイロットが揃っていたのです。
リチャード・ボング少佐、トーマス・マクガイア少佐、ジェラルド・ジョンソン大佐などなど、多彩なメンバーが揃っていたのです。

トーマス・マクガイアと愛機「パジー」

トーマス・マクガイアと愛機「パジー」

アメリカ陸軍航空隊のパイロットたちは一撃離脱戦法に徹して、零戦の得意な格闘戦には容易に応じず、その高速を徹底的に活かす戦法を取りました。
やがて大日本帝国がベテラン搭乗員を喪失していくのに呼応するように、「P38」の方は小回り戦闘にも対応できるよう、機動技術に磨きが掛けられていきます。

第二次大戦におけるアメリカ軍の個人スコアは、トップがリチャード・ボング少佐で40機撃墜。2位はトーマス・マクガイア少佐の38機、どちらのエースも「P38」乗りなのです。
3位にようやく「F6F」のデビッド・マッキャンベル大佐が入っています。
これ、太平洋戦線だけじゃないですからね。「第二次大戦における」です。「P38」を「ペロ八」と馬鹿に出来るのは大日本帝国のベテランだけに赦された特権だったのかも知れません。

ただし(儂は日本人じゃからな、多少の身びいきは許して頂きます)、大日本帝国の新鋭機が相手だと様相はガラリと変わります。

1945年1月7日、第二位エースのトーマス・マクガイア少佐は3機のP38(自身を含めて4機)を率いて哨戒に出撃します。
やがて彼らは一機の一式戦「隼」と遭遇し、戦闘に入ります。

P38のエース、リチャード・ボング夫妻

P38のエース、リチャード・ボング夫妻

 

4対1の圧倒的有利にもかかわらず、マクガイアは列機を一機(ベテランのリットメイヤー少佐)撃墜され、「隼」には逃げられてしまいます。
この「隼」は飛行71戦隊のベテラン杉本明准尉の乗機であり、低空での事でもあって、致し方ないと言えなくもないのですが。この直後に、雲の中から一機の4式戦「疾風」が出現いたします。

コチラは新米の福田瑞則軍曹が操縦していました。マクガイア少佐と福田軍曹は咄嗟反航戦(同位=同高度)となり、マクガイア少佐は撃墜されてしまうのであります。
福田軍曹はさらに残る2機のP38と格闘戦を演じて1機を撃破するも、自機も被弾。雲を利用して残った「P38」の追撃を振り切ったのでありました(ただし乗機は損傷が激しく着陸後廃棄)。

帝国陸軍機とパイロットの優秀性を示してくれる事例でありましょう。

ホンマに壁を越えたんかいな?

「P38ライトニング」には一つの特異な伝説があります。
おそらくJ型だと思われる「P38」なのですが、1944年3月にテスト・パイロットのベンジャミン・ケルゼイ中尉の操縦により、速度1,200キロ/時を「突破したんじゃね?」という「伝説」であります。

テストパイロット、ケルゼイ中尉

テストパイロット、ケルゼイ中尉

 

この速度は「ほぼマッハ1」で、本当なら人類初の音速突破なんです。が、速度計は圧力を感知して針を回す大雑把な代物で、正確とは言い難いモノ、公認されることはありませんでした。

プロペラ機が水平飛行で音速に迫るのは物理的に無理ですが、猛烈な急降下なら1000キロ/時に近づくことはあったでしょう。それでも、あと200キロ/時の増速は不可能だったと思います。

しかしながら、「P38」とパイロットの頑丈さ、強靭さが伝わってきませんか?私にはいかにも直線番長のアメリカ人が好みそうなエピソードと思えちゃいます。

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