満洲の大地に放りだした理想1~石原莞爾続き~

舞鶴要塞司令官時代のイラスト

 

 

石原莞爾をなんとか正義の味方に

前回、石原莞爾についての、個人的なうっぷん晴らしのような、写真紹介のような記事・石原莞爾の人間味に沢山のアクセスと「いいね」を頂きました。

さて、皆さまの優しい気持ちを石原莞爾にも分けてあげることにしましょう。
毀誉褒貶の多い石原ですが、ちゃんと評価してあげたい。一番大きな批難はやはり

「大東亜戦争の原因を作った」

ということでしょう。これをなんとかしてみましょう。

満洲事変で圧勝して、満州国を建国したことが支那進出へのきっかけとなり、支那進出、蒋介石との戦闘が英米との対立の端緒となり、援蒋ルート遮断のための仏印進駐が大東亜戦争のポイント・オブ・ノーリターンになったのだ、と言うのが大筋ですね。

しかしながら満洲事変と支那事変では性格が全く違います。

軍閥相手と政府が相手では…

支那事変では、ひ弱ではあっても、辛亥革命を成功させた国民党政府、すなわち支那の漢人正統政府が相手となりました。
でも石原の満洲事変は張作霖の息子、張学良の率いる東北軍閥が相手です。支那とか満州を代表する「政府」ではないのです。

新京のメインストリート、大同大街

新京のメインストリート、大同大街

満洲の地はもともと支那人の土地ではありません。
皆さんもご存じのように、明朝を倒した清の中核である、女真族などの遊牧民の土地だったのです。
その清朝を、支那人が辛亥革命で打倒した。支那人は「中原」を取り戻し、女真族は満洲に帰れば良いだけの話です。満州は満州人、女真族などの物で、支那は関係ありません。

しかも、満州は清朝末期は立入禁止の区域でしたが、半島で喰いつめた朝鮮人が入り込み、治安もままならない地でした。
日露戦争の勝利で日本は満州鉄道の沿線とターミナル駅の廻り(満鉄付属地)に主権を主張できるようになり、ロシアとの緩衝地帯として重視してインフラを整備して安定させ、治安を守った為に支那人もやってくるようになったのです。

満洲の人口は日露戦争(1904年)の頃は1,000万人、辛亥革命(1911年)の頃は1,800万人とどんどん増加し、満洲事変後には3,000万人に達しました。

その満州を横取りするように、支那人の軍閥(野盗の集団と変わりません)が成りあがってしまい、挙句に国民党政府に満洲を売り渡そうとしていました。

理想の国家

これを、満州人の手に戻し、五族(日本・満州・蒙古・支那・朝鮮)が協力して王道による楽園を作ろうとしたのが石原莞爾だった訳です。

後の支那事変は、「侵略」と言えないこともないです(私が侵略だと思ってるわけではありませんよ)が、満洲事変は満人支援・支那軍閥排除(+満鉄利権保護)の防衛戦争です。
支那人と戦争する、と言う部分だけを取り上げて石原を悪く言うのは不公平と言うものでしょう。

実はこのことは当時でも国際的に認知されていて、「満洲国」は多くの国に独立国として承認されているのです。

奉天市街で満洲国の国旗が宣伝されている

建国間もなく、奉天市街で満洲国の国旗が翻る

独立主権国家として最初に承認したのは、もちろん建国に深く関わった日本です。

「満州国」の建国は1932(昭和7)年3月1日ですが、その半年後、日本政府は陸軍大将・武藤信義を関東軍司令官兼任の駐満特命全権大使に任命し、満州国国務総理(首相)・鄭孝胥との間に『日満議定書』を調印しました。
世界で初めて、満州国を国として承認としたのです。

続いて翌年1月20日、満洲国の鄭孝胥・国務総理は、既に国交を結んでいた日本を除く71ヶ国の政府に対して、満州帝国の成立を通告しました。(執政・溥儀の皇帝即位は、さらに翌1934年3月1日です)

これに対して、中南米のエル-サルバドルが即時満州帝国を承認。
1934年4月にヴァチカン(ローマ教皇庁)
1937年12月にイタリアとフランコ政権のスペイン(内戦中)
1938年5月にはドイツ、同年10月にポーランド
1939年1月にハンガリーと続き、合計23ヶ国が「満州国」を承認したのです。

「満州国」を承認した23ヶ国を此処に挙げておきましょう。

正式承認
日本、中華民国南京国民政府、ドイツ、イタリア、スペイン、
ヴァチカン、ポーランド、クロアチア、ハンガリー、スロバキア、
ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、デンマーク、エル・サルバドル(中南米)

国書交換(準承認)
エストニア、リトアニア、ドミニカ

戦時中に承認
タイ、ビルマ、フィリピン、蒙古自治邦(内モンゴル)、自由インド仮政府

「満州国」を承認した国の数はたった23ヶ国かよ、と言うなかれ。
鄭孝胥・国務総理が満州帝國の国書を送った国が71カ国であることに注目しなければなりません。
世界は、今よりずっと少ない国々で出来ていたんです。

もちろん、米・英・仏・露等の承認はありませんが、英国等は支那本体に持つ利権が侵されなければどうでも良い、と思っていた節があります。
ヴァチカンや同盟にまったく関係のないドミニカやエル・サルバドルの承認はもっと評価されて良いと思います。

満洲に残っていたら

こうして一種の理想国家を創りだした石原でしたが、その後がいけません。
前回の石原莞爾の人間味で書きました、「満洲国建国までは良かったけど、その後がね」と言う部分です。
(この部分を取り上げて批判を繰り広げた「大学教授」がいらっしゃいましたが、まあ、大学のレベルが低いことを宣伝しているような物でした。我が国にとっては憂慮すべきことです、警察大学校ですから…)

満洲国皇帝

満洲国皇帝

満洲国は五族協和の石原の理想とは裏腹に、主要なポストに日本人が付くようになり、後に「日本の傀儡政権」という悪評を受ける事になってしまいます。

止むを得ない事だったと考えるべきかもしれません。
満洲国が国家の体裁を整え、統治の実を上げて発展するために、身近にいる近代国家運営のスペシャリストを使う、と言う選択は当然「あり」ではあったのですが。

実際には、石原は参謀本部に「栄転」してしまいますが、満洲国に居座って理想の国づくりを指導していたら。
もう少し違った形の統治機構が出来上がったのではないか?そうは思われませんか。
少なくとも、日本人がもっと表面に出ない統治形態が出来たんじゃないか?

特に国防軍においてはその思いは顕著になります。
満洲国軍は創建されたとは言え、とても弱体でした。満洲国の国防は実質的には関東軍が担っていました。

精強を謳われた関東軍も、太平洋戦線に転用されて腑抜けになっていくのは良く知られた所です。これが、ソ連の条約破りによって多くの邦人の犠牲を産んでしまう元となりました。

もし石原が日本陸軍を辞め、満洲国の指導にあたり満洲国軍(陸軍だけで良いんです)を育てていたら。

支那の東北三省の地には、今でも親日政権が存在していたかも知れません。

 

私は、この見方をひと様に押し付ける気はありません。

「こんな見方も出来ますよ。」と提示させて頂けば、それで良いのです。
それに対して、どういう意見を持とうが、それは受け取る方の自由です。

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