傷だらけの撃墜王~フィンランドを守ったのは~
冬戦争から継続戦争を経てラップランド戦争へのフィンランドの苦闘は、私の「戦略観」に大きく影響しています。
いえ、私の「戦略観」を創ってくれた、と思います。
日本の国防にもヒントになると思っていますが、皆様のご意見は如何でしょうか?
ユーティライネンもウィンドも脇役(笑)
今回のこの記事は、「フィンランド騎兵隊行進曲」を聞いて頂きながら軽~く読んで頂けたら、と思います。
フィンランド空軍で世界的にも有名なエースは、「無傷の撃墜王」の異名を持つエイノ・イルマリ・ユーティライネンさん。
垢悪魔の飛行機を94.5機撃墜して、被撃墜どころか被弾すら無かった超人的パイロット。
本人が「一発だけ喰らった」と述べた、とする説もあります。
ユーティライネンと並び称されるは、ハンス・ウィンドさん。
ウィンドは冬戦争の時は戦場に出ず、継続戦争から遅れて参戦したのに75機も撃墜。
フィンランドの最高軍事勲章である「マンネルヘイム十字章」(世界で最も貰いにくい勲章だと言われています)を一人で二つ授章した人は、ご本人のマンネルへイム元帥を入れても4人だけなんですが、空軍ではユーティライネンとウィンドの二人。
しかし、今回はユーティライネンもウィンドも主人公ではありません。
ハンス・ウィンドは1944(昭和19)年6月19日に3機、20日5機、21日0、22日3機、23日4機、26日5機、27日0、28日5機とわずか10日で25機を撃墜する超活躍を見せたのですが、最後の28日に重症を負って入院。
2度目の十字章を貰って戦線を離れてしまいました。
本編の主人公はこの時にウィンドの列機を努めていたニルス・カタヤイネンであります。
ハードラック・カタヤイネン
ニルス・カタヤイネンは1919年5月31日、ヘルシンキで生まれました。
子供の時からパイロットに憧れていたようです。
若くしてグライダー操縦課程を受講、冬戦争が勃発すると志願入隊して戦闘機パイロット(下士官候補生)になりました。
しかし、冬戦争は1940年3月に休戦となり、カタヤイネンは戦争に間に合わなかったのです。ウィンドと同じ「悲運」です。
ドイツがソ連に攻め込むと、フィンランドは冬戦争で盗られた領土の回復を目指します(継続戦争)。
嫌々ドイツ側に付いた、って事に(無理やり)なってますが、「勝ち馬に乗っとくかぁ」って気持ちが無かったワケがありません。
それでも、元々の自国領から出て、元々のソ連領まで攻め込む、って事は火虎相当に請われてもやってませんから、こののちに「上手いこと立ち回る」ための布石はちゃんと打ってたんですね。
こういうところが、儂のフィンランド隙の理由。
カタヤイネンは軍曹に任官して第24戦隊第3飛行隊に配属されました。
当時のフィンランドは全くの「小国」で(今でもだけど)、航空機の自製は出来ませんでした(戦争中に「ブリュースター・バッファロー」をコピー生産も間に合わず)。
連合国と枢軸国の対立の狭間でソ連に侵略されても、世界中から同情はされても軍事的援助はもらえぬままでした。
航空機の輸入も思うに任せず、冬戦争ではフォッカー D.XXI、フィアットG.50、モラーヌ・ソルニエMS406、カーチス・ホーク75、ホーカー ハリケーンⅠなど旧式で雑多な輸入戦闘機を駆使して大奮闘します。
それだけでなく、鹵獲したソ連製のポリカルポフI-16、I-153まで戦闘に投入して、「世界一多種の戦闘機を運用した空軍」と揶揄されてしまいます。
これに懲りたのか、空軍は米英が「失敗作」として重用しなくなった「ブリュースターB-239(バッファロー)」をまとめて44機(440機の誤タイプにあらず)も輸入して継続戦争に備えていました。
そのバッファローを配備されたのが、カタヤイネンさんの第24戦隊第3飛行隊だったのです。
ドイツや大日本帝国の戦闘機には全く歯が立たなかったバッファローですが、フィンランド空軍にとっては虎の子の新鋭戦闘機。
冬戦争でもっとも戦績の良かっ、た同飛行隊に優先配備されたよみたいです。
このことがカタヤイネンにとって良かったのか悪かったのか?
「ハードラック」のニックネームは「ブルーステル」(バッファロー戦闘機のフィンランドでの愛称)とともにカタヤイネンについて回ることになります。
なお、継続戦争でのフィンランド空軍は、ダメ戦闘機「ブルーステル」を21機喪失(事故含む)と引き換えに、ソ連機456機を撃墜する(キル・レシオ21倍)と言う超絶的な成績を上げています。
完熟飛行1回目で
新鋭機を導入したら、パイロットは操縦特性を把握するために「試し乗り」(慣熟飛行)をします。
もちろん、新人パイロットのカタヤイネンも訓練をかねて「ブルーステル」に乗り込みました。
ところが離陸の際に機がバウンドしちゃいます。
いったん着地した衝撃で主脚の片方が壊れてぶっ飛び、ついでに昇降舵を連れて行ってしまいました。
機はそのまま離陸してしまいました。
新人離れした卓越の技術で片輪着陸に成功し、カタヤイネンに怪我はありませんでしたが機は修理工場へ。
6月28日の初出撃で、カタヤイネンはソ連のSB爆撃機を見事に撃墜、波乱万丈のエース人生をスタートします。
しかし、このSB爆撃機の一弾がカタヤイネン機のエンジンに命中、咳き込み始めてしまいました。
カタヤイネンはエンジンをなだめすかして基地まで帰り着き、止ってしまったエンジンを抱えて不時着に成功しましたが、機はエンジン交換。
普通に評価するなら、「またしても秀逸な技量を証明」の筈ですが…
8月12日、ポリカルポフI-153「チャイカ」(複葉機)と空戦になり、2機撃墜しますが、燃料タンクを射抜かれてガソリンが噴出。それでも何とか無事に帰投、しかし機は修理。
9月には撃墜数を6機に伸ばし、エースの称号を得たカタヤイネンでしたが、偵察飛行で対空砲火を被弾、出火します。
火を噴く愛機のスロットルを、カタヤイネンさんは慎重に開けたり絞ったりしながら今度も無事?に帰投します。
もちろん機は修理。
フィンランドほど戦闘機を大事に使った国は、古今東西どこにもありません。
墜落しても、壊れても、直せる限りは修理して徹底的に使います。前述のように鹵獲した敵機さえ使いました。
パイロットたちも「前方視界が…」とか「上昇力が…」などと文句は言わず、飛べるモノはなんでも飛ばしてソ連機と戦ったのです。
たとえば、1942年の6月下旬のことです。
「ブルーステル」で出撃したランペルト中尉は空戦のすえにソ連の占領地域に不時着してしまいました。
世界的には「あかんたれ」のバッファロー戦闘機でも、フィンランドにとっては44機しかない新鋭機です。
連絡を受けた陸軍はすぐさま出撃し、戦闘の上で不時着した機体を回収して引き揚げた程です。
こうして回収されたは「ブルーステル」は修理を受け、少尉になっていたカタヤイネンさんが試験飛行を担当することになりました。
ところが、離陸直後に激しい振動が発生し、あわてて着陸した時に滑走路の草にひっかかって転覆してしまいまったのです。
「お約束」通りにカタヤイネンさんは無傷でしたが、陸軍がせっかく回収して修理できた「ブルーステル」はまたまた修理工場へ。
エース、爆撃隊に左遷?される
ここまで、カタヤイネンの撃墜数は12と「立派なエース」でしたが、被弾や事故は少なくとも七回ありました。
ここで彼に転属命令が出されます。
別の戦闘機隊に移れ、では無く「爆撃機に乗れ」、と言うものでした。
戦闘機同士の乗り換えでも慣熟訓練が必要ですし、爆撃機ともなれば大きさも違えばやるべきことも違います。
強敵を相手の戦争中に出す辞令ではありません。
「ブルーステル」を壊しすぎたためでしょうか。
カタヤイネン自身も、第24戦隊第3飛行隊(山猫戦闘機隊)のマグヌッソン隊長(カタヤイネンの最大の理解者でした)も、抗議しましたが受け入れられません。
やむなくカタヤイネンは、鹵獲したSB爆撃機でソ連の潜水艦を攻撃する任務に就きました。
この任務中も元の戦闘機隊に戻してくれるよう何回も請願を行いますが、これがかえって上官の機嫌を損ねてしまいました。
ついにカタヤイネンは爆撃機に乗ることも禁じられ、爆撃機基地の掃除を命令されてしまいます。
復帰と休養と戦果
しかし、ドイツ軍の進撃に伴って有利に展開していた継続戦争も、ドイツ軍の退潮とともに行く手に暗雲が漂い始めます。
小国フィンランドにエースを地上で遊ばせておく余裕はなくなっちゃいます。
カタヤイネンは半年ぶりに「ブルーステル」の操縦桿を握ることができたのです。
1943年4月に復帰すると、カタヤイネンはたちまち強敵のYak-7bを含む3機を撃墜して再びスコアを伸ばし始めました。
しかしまたもや6月の戦闘で主翼に被弾してしまいます。
損傷した「ブルーステル」の操縦はカタヤイネンの得意技。またも無事に帰投かと思われたのですが。いや、得意技はちゃんと遂行されたのではありますが。
ところが今度は「ブルーステル」だけではなく、カタヤイネンも壊れてしまったのです。
機銃弾の破片がすねにめり込んで、これが意外な重傷でした。
傷の痛みと大量出血に耐えて、大破した愛機を連れ帰るとそのまま病院へ直行。今度は機もパイロットも要修理。
カタヤイネンは一ヶ月の入院を余儀なくされてしまいます。
やっとの思いで退院したとたん、またもやブルーステルの壊し屋と思われたのか「長期休養の要あり」と戦場から遠ざけられてしまいます。
しかし、こんなピンチにもめげないのがカタヤイネンのカタヤイネンたる所以であります。
カタヤイネンは休養中に人生最大の戦果に恵まれます。
カタヤイネンは病院で美しい女性と知り合い、休養を良いことに彼女に迫りまくり、ついに「撃墜」してしまったのです。
「こんなにきれいな人と結婚させてくれたソ連機に感謝してるよ。でも、次に出会ったら容赦しない。」
とはこの時のお言葉。
「ブルーステル」から世界的な名機へ
戦時中の兵器ほどすばやい進化をするものはありませんが、中でも戦闘機の進歩は桁違いでした。
おそらくパイロットの平均技量なら世界一だったであろうフィンランド空軍でも、流石に「ブルーステル」(ブリュースター・バッファロー)戦闘機の性能に限界を感じていました。
1944年2月、ようやく復帰したカタヤイネンが搭乗することになったのは、ドイツから供与された、Bf109Gでした。
ナチスドイツが「これで第二次大戦を戦いぬける」と自信を持って開発した世界的な名機。
この頃はいささか設計が古くなっていたとは言え、改良を重ねて大戦当初とは別の機体といえるほどの高性能機です。
まずはあいさつ代わりの慣熟飛行に臨んだカタヤイネンさん。
ご期待通りというか、ダイムラーベンツエンジンが突然黒煙を噴きます。
このときは流石カタヤイネン、無事に着陸しました。
が、その一週間後に出撃しようとすると強風が吹き、視界も効かなくなったところで大地に激突して粉々になってしまいました。
またまた入院したカタヤイネンでしたが、新妻の看護は絶大な威力を発揮。
新妻の愛はフィンランドの撃墜王の修理を、ソ連空軍の「6月大攻勢」に間に合わせちゃったのでした。
カタヤイネンは6月23日から7月3日までの10日間で16.5機を撃墜するという鬼の活躍ぶり(0.5は共同撃墜)をみせます。
6月28日には最初に紹介させていただいたハンス・ウィンド最後の戦闘を列機として見届けました。
7月3日、シュトルモビク2機を落としたところでまたも被弾。機は壊れましたがカタヤイネンは無事。
7月5日。カタヤイネンさんは爆撃機の護衛に出撃します。
ビープリ湾付近で対空砲火がカタヤイネン機の主翼を貫通し、破片がエンジンに。
エンジンは黒煙を吐き、「壊れても持って帰る」カタヤイネンもパラシュート降下を決意するほどで、脱出のために風防を飛ばします。
ところがこの黒煙がいったん収まってしまいました。
そうなればカタヤイネンの職人根性が目覚めます。
いつものように止まりかけるエンジンをだましながら基地へと向かい、ついに目視圏内にまで戻ったのです。
ところが、風防をとばしてしまったのが運の尽きだったようです。
エンジンはガソリンを消化しきれず、有毒な気体がコクピットへと流れ込んでいたのでした。このガスを吸い込みつつ飛行していたカタヤイネンさんは、基地上空では既に意識を無くしていたと思われます。
カタヤイネンのBf109Gはそれでも着陸姿勢には入りました。
入りましたが脚は出さず、速力も落とさず(Bf109はもともと着陸速度が速い)500キロ/時以上で地上に激突!してしまいました。
木っ端微塵のBf109Gの機体の方は、流石のフィンランド空軍も再起不能と判定したのですが、血まみれで骨折だらけのカタヤイネンはまだ息がありました。
病院に運ばれてもカタヤイネンは生死の境を彷徨い続けます。
マグヌッセン隊長も駆けつけ、自分が貰った「マンネルヘイム十字勲章」をカタヤイネンに掛けてあげました。
カタヤイネンは武勲は勲章級なのですが、壊した機体も多くて、まだこの勲章を貰っていませんでした。
カタヤイネンのよき理解者だったマグヌッセン隊長は、やられても傷ついても戦い続けたカタヤイネンこそ、
「『マンネルヘイム十字勲章』に最もふさわしい『武士』である」と信じ、死に行くカタヤイネンに手向けたのであります。
しかし、「ハードラック・カタヤイネン」は理解者マグヌッセン隊長の思いをあざ笑うほどに不死身でした。
何とここから奇跡的に回復。
1997年まで生き続けて、今度はホンマに「マンネルヘイム十字勲章」を授与され77歳で天寿を全うしたのです。
何よりも「人」が大事なのはフィンランドのような小国に限りません(フィンランドの人、ごめんな。儂は大国の国民として生まれ育ってるけど、理解はしてるつもりじゃからな)。
兵器は失われてもまた作れますし、買うこともできますが、人間はそうはいきません。
育てるには膨大な時間とお金がかかるし、その膨大な時間とお金を支えるにはまたまた多くの人が必要になるのです。
国を守るためには、自分が生き残って戦い続けること。
私にはカタヤイネンがそう教えてくれているように思えます。
ソ連がフィンランドに攻めこんだ理由
フィンランドはもともとロシア帝国の一部でしたが、共産革命のドサクサで独立、垢勢力と保守勢力の内戦を保守が制して第二次大戦を迎えたものです。
フィンランド最大の英雄で、カタヤイネンが貰った勲章の名前にもなっているマンネルへイム元帥も、日露戦争に従軍した「ロシア将校」だったのです。
ソ連がフィンランドに侵攻した「冬戦争」は、ソ連から見ると「レニングラード防衛」のために必要不可欠なものでした。
当時のレニングラードは人口300万を越え、モスクワに次ぐソ連第二の都市でした。
ところが、レニングラードはモスクワやスターリングラードとは異なり、防衛のための縦深がありません。
そこで、せめてフィンランドと共有するヨーロッパ最大の湖「ラドガ湖」をすべてソ連国内に取り込んで防衛をラクにしよう、とフィンランドに交渉、と言うか脅しを掛けたのです。
フィンランドはもちろん領土の割譲を拒否。開戦となりますが、善戦はしたものの領土を奪われました。
結果として、レニングラードは900日に及ぶドイツ軍の攻囲に耐え抜きます。この大篭城戦に最も貢献したのは、凍結したラドガ湖を使った補給ラインだったのです。
フィンランドはどうしたら良かったのでしょうか?
いろいろと考えても、私にはまだ結論が出せません。
ただ、フィンランドは冬戦争で失った領土回復を目指した「継続戦争」で、同盟国ドイツのレニングラード攻囲への参加要請も、ラドガ湖ラインの妨害要請も前述したように、言下に断っています。
どんなに戦勢が有利になっても、冬戦争以前の領土から踏み出して戦おうとはしなかったのです。
ドイツがソ連の圧力で後退を始めると、フィンランドは枢軸から離脱。
ソ連にまたまた領土を割譲するばかりでなく、昨日までの友軍と戦わされるハメになりました。
独軍はフィンランド領内を北へ、占領していたノルウェイへと争うことなく引き上げていきましたが、フィンランド軍はソ連軍の圧力でこのドイツ軍に砲撃を加えざるを得ませんでした。
撃たれたドイツ軍も嫌々反撃。まあ、どっちもソ連軍に見せるための芝居みたいなモノだったようですが。
これが「ラップランド戦争」です。悲しいではありませんか。
『勝てる時に勝っとけ』ってのが、電脳大本営がフィンランドの第二次大戦から得る最大の戦訓です。非常に無責任ですけどね(笑)