二日市保養所~半島からの引揚げ~
1945年8月15日、大日本帝国が敗戦を受け入れると「民族大移動」が始まりました。
満州国から、支那本土から、朝鮮半島から、台湾から、南方から、北方領土から。
1946年春、博多港にて
苦労を重ね、現地を発展させて自分も豊かになろう!と夢を抱えて頑張っていた日本人たちが、財産を捨てて命ひとつで内地へ帰ろうとしていたのです。
朝鮮半島からの引揚げ船は距離の関係から、おおくが博多港や福岡県下の港に入ってきました。
引揚げてきた人たちは破壊し尽くされた町を見て息を飲んでしまいます。
自分たちを含めて660万人もの人たちが、この荒廃した国土に帰ってくるのです。
小さくて、荒れ果ててしまったこの国は、私たちを養えるのか?
私達でこの国を、再び繁栄に導く事は出来るのか?
不安を胸に、人々は今まで苦労をともにした仲間に別れを告げるのももどかしく、郷里への道を急ぐのでした。
トラックに乗って
そんな慌しい中で、一団の女性たちが人目を避けるようにして立っていました。
年齢はさまざまで、娘さんと思われる人の手をじっと握り締めたお母さんの姿もチラホラ見受けられました。
異様だったのはその髪型で、女性ばかりなのに全員が丸刈りに近い短髪です。
服装も男物か、とても女性には見えないようなもので、顔には煤や炭を塗りつけたままの人もいます。
そこへ一台のトラックがやってくると、女性たちを屋根のない荷台に乗せて走って行きました。
略奪暴行はあたりまえ
満州や支那本土、半島からの引揚げは相手が国民党ならまだ良かったのですが、支那共産党やソ連が絡むと碌なことにはならないのです。
財産の略奪だけでなく、強制連行や虐殺などで祖国の地を踏めずに無念に斃れた人は少なくありません。
これに加えて女性は、半島人やソ連兵、支那人(満人ではありません)によって暴行・強姦を受けて、妊娠したり、性病に罹ったりしていたのですが、日本政府は何らの処置も取っていなかったのです。
そして強姦により妊娠した女性の中には、これを苦にして自殺する人も続出していました。
釜山日本人世話会による調査では1945年12月 から1946年3月までの対象者885人のうち、強姦被害者70人、性病罹患者19人と約1割が性犯罪の被害に遭っているという数字が残っています。
二日市保養所
大日本帝国の敗戦によって解散することになった、京城(ソウル)帝国大学の医学部医局員たちは「在外同胞援護会救療部」という組織をつくり、引揚船に医師を派遣して引揚者の治療に当たっていました。
彼らが、女性の強姦被害が多いことに気づき愕然とし、すぐに専門の治療施設を作らなければならない、と活動して福岡郊外の二日市温泉にあった「愛国婦人会」の保養所(海軍保有の施設との説も)を利用して「二日市保養所」が開設されました。(二日市保養所の運営主体について、機にの最後に訂正があります)
1946年3月25日のことであります。
保養所といってもその実態は「堕胎所」です。
当時は堕胎は完全に違法な行為でした。
女性のプライバシーもあり、国が前面に出るわけにも行かず、博多から3時間あまりの、人目に付かないところが選ばれたのです。
トラックに乗せられた女性たちが運ばれたのはここだったのです。
麻酔もなく
日本は存亡を賭けた戦いに敗れ、物資の不足どころか食料すら満足にない国へと転落していました。
堕胎に際して、女性たちに与える麻酔すら満足にはなかったそうです。
しかし、女性たちは泣き声ひとつ立てずに手術に耐えたといいます。
この様子を詳しく書いた資料もあるのですが、私には書き記すことができません。
もし、詳しくお知りになりたければコチラなどはいかがでしょうか。
二日市保養所では1947年に閉鎖されるまで500件を越える堕胎手術がおこなわれました。
国は敗れてさえ、日本人は矜持を失うことはありません。
半島の特殊性
また沢渡がKorea人の悪口かよ、とお叱りを頂戴しそうですが。
書かねばならないことを書かなければ、ブサヨのお涙頂戴と変わらなくなってしまいます。
二日市保養所の橋爪将医務主任の報告書が残されています。
施設の開設から2か月間で被害を申告した邦人女性への加害男性の国籍内訳は、半島28人、ソ連8人、支那6人、アメリカ3人、台湾・フィリピンが各1人となっています。
ここでご注意願いたいのは、ソ連・アメリカは確実に軍人であり、支那も国民党軍の可能性がありますが、半島は「一般市民」だということです。このときは「北朝鮮」という国も「韓国」という国もこの地球上に存在していないのですから。
半島は、台湾と同様に「日本国内」でした。
大日本帝国は半島を(国防上の必要から)イヤイヤ領有し、領有した限りは未開な糞まみれの国土から、自治能力もない土民を救ってやろうと懸命に努力を続けていたのです。
二日市保養所で活躍した医師たちの母校、「京城帝国大学」だって、もちろん帝国が建ててやったモノです。
それも東京・京都・北海道に続いてなんと4番目の早さ。大阪や名古屋より先に帝大が出来ているのです。(記事の最後に訂正があります)
識字率一桁パーセントの低教育国民に初等教育を与えたのみならず、高等教育まで。
それは半島人も良くわかっていたことで、少し学のある半島人はこぞって大日本帝国陸軍(海軍は受け入れませんでした)への入隊を願ったのは、皆さんご存知のことであります。
私たちのご先祖はどんなに恩義を受けようと、親切にしてもらおうと、相手が弱ったと見れば牙を剥き、襲い掛かる獣を飼っていたんです。
負け方も参考に
次にもまた、負けることなどは考えたくもありませんし、またよもや不覚を取ることもないでしょうが、朝鮮半島内で多くの大和撫子が被害にあったことは決して忘れてはいけません。
(画像をクリックして頂けば大きくなります。)
しかも、相手は占領してきた軍隊ではなく糞土民だったことは、どうしても覚えておく必要があります。
しかも、この状況はこれ以前にも警告されていました。
関東大震災です。
地震で関東地方が混乱に陥るや、各地で徒党を組んで略奪に回る「不逞半島人」の動向や自警団を組織して対抗する日本人の姿は各新聞に報じられています。
帝国政府も陸軍も、この前例を重視しませんでした。この国民に対する危険の軽視が多くの女性を不幸に追いやってしまったのです。
日本軍は強くなくてはなりません。
それ以上に、万一敗れた時でも、女性だけは守り抜く軍隊でなくてはなりません。
既に書きましたが、当時のKoria半島は「日本国内」です。昭和20年の8月は朝鮮総督府が治安維持を担っていたのですから、女性の保護を名目に、15日を過ぎても暴徒・土民の排除くらいの軍事行動を取らんでどうするんですか!
軍隊と政府は厭でも「万一負けた時」のシミュレーションもしておかねばなりません。
嬰児に罪は
堕胎をすれば、小さいとは言っても亡骸を始末しなければなりません。
事情が事情ですからお墓を立てるわけにもいかず、雑用をしていた初老の男性が桜の樹の根元にこっそりと埋めていたそうです。
女性たちの眼には、桜の花だけが映っていて欲しいものだと心から思います。
いま、二日市保養所のあったところには「母子像」が立てられております。
親に先立った嬰児は「親不孝」だから成仏できない、とされています。
それを救ってくれるのが地蔵菩薩ですが、「母子像」はそのお地蔵さまが赤子を抱いているのです。
2016.08.16加筆
2017.08.13加筆・画像追加
2018.08.14加筆・修正
フェイスブックのグループ「大東亜戦争の真実を発信する会」でこの記事を紹介させて頂いたところ、メンバーさんから貴重なご指摘を頂戴しました。
電脳大本営の誤りを御指摘下さった山田隆夫さまに御礼申し上げるとともに、ご指摘を下記に掲載させていただきます。
2018.08.14
私は二日市保養所に近い太宰府市に住んでいて、毎年お盆に慰霊碑にお参りをしています。その私が6年前に仲間との勉強会様に書いたものを再度転載します。この記事には少しだけ間違いが有ります。1・帝大は東大・京大・東北・九州・北海道・京城・台北・大阪・名古屋の順です。もっと大きな間違いは二日市保養所は「厚生省引き揚げ援護局二日市保養所」として運営されました。堕胎罪が有ったので「人道的見地から超法規的処置」として行われ、「優生保護法」が成立して合法的に堕胎できるようになったので、閉鎖されました。
続いて、二日市保養所についての山田氏のお書きになった文章です。
参考とされた書籍・記録についても詳述されていますが、この記事では割愛させていただきます。
二日市温泉の起源は太宰府政庁時代に続命院(現在は俗明院と表記)が
設置されたことに始まる。
二日市保養所の前身は武蔵温泉療養所として昭和8年(1933)に愛国婦人会福岡県支部の
幹部により寄贈されたものである。木造2階建の医療施設として戦病者の保養治療を行ったが
施設整備に伴って社会福祉事業を拡大した。
二日市保養所は、厚生省引揚援護局保養所として昭和21年3月25日に開所され翌22年秋に
閉鎖された。二日市保養所では戦後朝鮮や大陸から引き揚げの途次に朝鮮人・ソ連兵・支那人等に
襲われて暴行を受け妊娠した女性のうち博多港入港を前にして玄界灘に身を投げ、或いは帰国後に
自殺をするといった人たちが数多くいた為、この女性たちの救済と性病などの蔓延を防ぐ目的で
掻爬手術や治療を行った。当時は未だ「堕胎罪」があって掻爬手術は違法行為であったが、
被害女性の救助のために人道的見地から超法規的措置として行われた。
開所から21年末までの患者数は380人に上り、内訳は不法妊娠213、正常妊娠87、性病35、
その他45であった。また当時の医者の証言としては閉鎖までに、4~500人は手術をしたとも
言われている。
保養所で掻爬手術によって死産とされた水子の慰霊碑は、福岡県済生会特別養護老人ホーム
むさし苑の駐車場の一角にある。ここでは毎年慰霊祭が営まれているということであるが
市役所の人も近所の人もその存在自体を余り知らないように思えた。
(近くを掃除している人や市役所でも聞いたが、明確な場所を示す事は出来なかった。)
二日市保養所に関する書物・文献などを探して、「筑紫野市図書館」「ふるさと館ちくしの」や
太宰府市図書館を訪ね歩いたが、二日市保養所を取り上げたものは引揚げ港・博多を考える集いが
唯一正面から取り扱った「戦後50年 引揚を憶う(続) 証言・二日市保養所」を出版していた。
それ以外では「郷土100年展」に(平成14年3月1日・ふるさと館ちくしの発行)写真が数葉掲載され
説明が付記されてはいたが、女性の被害や手術に就いては一切記載されていなかった。
また折角引揚げ時の実態を調査し纏めながら、戦後思想に沿った纏め方が随所に見受けられ、聊か
残念な思いを禁じ得ない。特にあとがきの7行目から9行目では犠牲者の女性の言葉ではなく、
「花いちもんめ」という1人芝居の中で暴行を受けた満蒙開拓団の婦人の役の役者が(台詞として)
「これが戦争よネーッ!」とうめくように叫んだ声が忘れられません。と書き、それに続けて
「日本兵も同じような事をやったんだから!」ポツリと言われた秦先生の言葉。結局は悲劇の
背後にあった「あの戦争」を抜きにしては語れない事です。と書いて、自分たちの価値観・戦争観の
押し付けを行っていると思うのは私だけであろうか?。
(因みに日本人女性を凌辱したのは朝鮮人・ソ連兵・支那人の順であるが「外国兵など」という
曖昧な表現になっている。ウィキペディアでは加害者に就いても明確に触れている。)以上