イタ公と呼ばないで《陸軍編1》~北アフリカの稲妻~
「イタ公と呼ばないで」の今回はとりあえず陸軍編1です。
「イタ公と呼ばないで」の海軍編1と海軍編2も、ご覧いただけると幸いです。(陸軍編2も近日公開予定)
海軍はまだしも陸は「ヘタリア」だろう、と思っておられる皆さん。
第二次大戦当時「世界最弱」と言われたギリシャ軍に負けたんですから、まあ仕方の無いことですけどね。
ドイツ軍より
しかし、であります。
局地で見ると帝国陸軍も真っ青の死闘を繰り広げた部隊もあるんです。
場所はご存じエル・アラメイン。名将ロンメルの第一次の攻勢が挫折した後からお話を始めることといたしましょう。
「砂漠の狐」の攻勢をしのぎきった英第8軍に、新司令官モンゴメリー中将が着任した1942年の8月。
補給線の延びきった枢軸軍に対し、要港エル・アラメインを死守した英軍にはレンドリースのM4シャーマン戦車が続々と到着しつつありました。
枢軸軍と英軍の陸上戦力を単純に比べてみると、野砲580門vs540門・戦車540輌vs450輌。ただし、枢軸軍の戦車の半数はイタリア製ですから。
この戦場では「性能より数」のシャーマンが最強でしたし、実質的には戦力はすでに逆転していました。
その上マルタ島攻略作戦を中止してまで、北アフリカに兵力を注ぎこんだツケが回った枢軸軍は補給が途絶え、物量的にもう勝ち目はありませんでした。
お門違いの戦場
このお話の主人公部隊、イタリア王国第185空挺師団『フォルゴーレ(稲妻の意味)』は新設の部隊でした。
独伊両軍が計画していたマルタ島(地中海輸送の邪魔になっていた)占領作戦に大規模な空挺部隊を使う必用があり、1941年9月から編成が開始されたものです。
ところが、編成が完了した時にはマルタ島作戦の中止が決まってしまい、「空挺」とは縁もゆかりもない北アフリカの砂漠に投入されることになりました。
1942年の8月31日からの第二次の攻勢も戦力、特に約束されていた燃料と弾薬が届かずに不足して失敗に終わると、戦力の差を痛感したロンメルは防御に転じます。
「悪魔の園」と言われた広大な地雷原を巧妙に配置し、英軍を待ち受けたのですが、ロンメルの体調が悪化。
一方で英軍はイミテーションを使うなどして、攻勢の開始時期と方向を隠匿します。枢軸軍はこれに騙され、ロンメルは療養のため帰国してしまいました。
『フォルゴーレ』は9月初めにエル・アラメイン南部、エル・カタラ地区に展開して英軍を待ちうけました。
フォルゴーレの第9大隊は、早速威力偵察に来た英第132歩兵旅団を発見・迎撃。独軍(コチラも空挺旅団)の協力を得ながら白兵戦に持ち込み多大な損害を与えて撃退に成功します。
この後『フォルゴーレ』は兵力を4つの戦闘団に分けてエル・アラメイン防御線の南部地域15Kmを受け持ちます。
と言っても総兵力は5000名、たった5000名で15Kmです。
補給戦
独伊側は増援と補給を待っていました。しかし英軍は独伊の海上輸送路を狙い続けて、8・9月で10万トンもの輸送船を沈めてしまいます。お陰で枢軸アフリカ軍団の燃料は1週間分しかない状態でした。
イタリア軍の戦車はM14中戦車278輌とL6軽戦車20輌を戦線中部に配備されているだけだったのです。
参考;M14/41中戦車スペック
全長:4.92m、全幅:2.17m、全高:2.25m、全備重量:14.5t、乗員:4名
エンジン:4ストロークV型8気筒液冷ディーゼル・出力:145hp速力:33.0km/h
兵装:32口径47mm×1(87発)、 8mm機関銃×4(3,048発)、装甲厚:6~40mm
一方の英軍は枢軸側がマルタ島攻略を諦めてくれたので、安定的な補給を実施しています。その上にやっと参戦してきたアメリカからのレンド・リースが大量に到着し始めます。
豊富な燃料弾薬だけでなく、兵員は20万名、戦車1200輌(M4シャーマンだけで300輌)以上、航空機1000機以上と質量ともに枢軸アフリカ軍団の倍以上となっていたのです。
それにとどまらず、底なしの物量を誇るアメリカからは続々と大西洋を越えて物資が送られて来つつありました。
英軍の攻勢
1942年10月23日の夜、英軍は2000門の砲撃で攻勢を開始しました。
南北に伸びる枢軸防衛ラインに対して、物量にモノを言わせて正面から攻勢を掛けたのです。
北部ではロンメルが巧妙に敷設した「悪魔の園」地雷原を突破するのに手間取りますが、損耗する戦力は後方からどんどん補充されます。
対する枢軸側はこの期に及んでも、せっかくトブルク港までたどり着いたタンカーを揚陸前に撃沈されるなど、移動の燃料にも事欠くまで追い詰められていました。
南部では英第13軍団が『フォルゴーレ』に襲い掛かりました。
兵員数で13倍、戦車の数では70倍と言う圧倒的な差でしたが、『フォルゴーレ』は一歩も引かずに英軍に立ち向かいました。
『フォルゴーレ』は元が空挺部隊ですから、重装備を持ちません。
持っているのは47ミリ対戦車砲が最大。この大砲はオーストリアで開発された軽量優秀砲で汎用性が高く、ドイツ軍でも使用していたほどですが、この当時は既に旧式化し始めていたものです。
『フォルゴーレ』がシャーマンに対抗するためには爆薬・地雷と火炎瓶に頼るしかありませんでした。帝国陸軍の専売のように思われがちな捨て身の「肉弾攻撃」ですが、フォルゴーレ空挺兵達が先に実施し、大きな戦果を上げていたのです。
攻勢2日目の25日には『フォルゴーレ』第4大隊だけでM4シャーマンを22輌撃破します。26日には夜襲を掛けてきた英歩兵師団を熾烈な肉弾戦で撃退、28日にはなんと52輌の戦車を破壊。
『フォルゴーレ』は勇戦を続けますが、英軍の戦車と兵員は破壊しても倒しても、それ以上に補充され続けます。
この物量差に、『フォルゴーレ』の勇士たちは1100名以上の戦死を記録。ほぼ壊滅状態に陥ったのですが、10月末を過ぎても戦線を維持していました。
英軍は北部で攻勢を強め、危機を聞いて本国から急遽戻ったロンメルは南部の兵力を引き抜いて戦線を再構築します。ロンメルは『フォルゴーレ』を見捨てて防御を固めたようなモノです。
ここに至り、弾薬すら底をついていた『フォルゴーレ』も後退することになりましたが、一瞬遅く英軍に攻囲されて降伏することとなりました。
敵も称賛
アメリカのタイム紙はこの「フォルゴーレ」の戦いぶりについて
「彼らは良い意味で同盟国の予想を裏切る戦いを見せた…特に南部戦域ではフォルゴーレ師団の兵士が爆薬を抱いて英軍の戦車に肉薄した」
と称賛しています。
ロンメル不在の1942年10月23日から11月1日にかけての英軍の大反攻を効果的に阻害したのは、ドイツ軍がお荷物扱いをしていたイタリア軍でした。
イタリア軍部隊の思わぬ抵抗とそれによる大損害を知ったチャーチルも
「彼らは獅子の如く戦った」
と賞賛したそうです。
如何でしょう?少しは「イタ公」を見直して頂けないでしょうか。
「フォルゴーレ」の名はイタリアの空挺旅団に引き継がれています。