R方面航空隊~ソロモンの海空を守りぬいた水上機隊~

二式水戦の艦船攻撃

昭和18年8月7日。
アレクサンダー・ヴァンデクリフト少将指揮下のアメリカ海兵隊・海兵第一師団がガダルカナル島へ上陸をはじめました。

ラバウルからはるか

ガダルカナル島は、ミッドウェイでの敗北によって諦めた「米豪分断作戦(FS,MOの両作戦主体)の代わりに、同島に飛行場を建設してソロモン諸島方面の航空支配を強化しようとする海軍の目論見で占領していたものです。

アレクサンダー・ヴァンデクリフト少将

アレクサンダー・ヴァンデクリフト少将

 

防備と言えるほどの在島戦力はなく、あっと言う間に建設中の飛行場を占領され、あっという間に大量の重機を投入されて飛行場が完成してしまいました。ヘンダーソン飛行場であります。

ガダルカナル島至近の海軍拠点は資材の集積地でもあったラバウルなんですが、その距離なんと1000キロメートル。長大な航続距離が自慢の零戦が増槽を付けても、ガ島上空で空戦できる時間は15分あるかないか、だったと言われています。

ヘンダーソン飛行場

ヘンダーソン飛行場

長距離飛行による搭乗員の消耗を考えなくても、ガ島占領は反攻の可能性を全く考えていなかった、と言われても仕方のないところです。
この報告を聞いた東条英機首相兼陸相が「どうして間の島に飛行場を造っておかないんだ!」と激怒したのも当然でありましょう。しかし、東条英機も「即時撤収」の決断は下せなかったので、大きな顔は出来ません。

大日本帝国海軍は、太平洋の覇権を喪失する原因となった一大消耗戦へと引き込まれていくのであります。とはいえ、この時点では米軍もガ島に対する補給路の整備が出来ていたわけではありません。

ソロモン諸島要図

ソロモン諸島要図

ガ島を巡る攻防戦の初期は米側も駆逐艦による輸送、つまり鼠輸送(米側だからワシントン・エクスプレスかな?)に頼る不安定ぶりで、日米の差は飛行場をさっさと作れたかどうかに掛っていたのです。

零戦22型

零戦22型

零戦が1000キロを飛んで行くということは搭乗員の疲労の他にも、機材の整備が行き届かなくなる、敵地で帰り1000キロ分の燃料を積んだいわば「重たい状態」で闘わざるを得ない、途中で敵艦船を発見しても攻撃不能、洋上航法が未達の者は戦闘行動に制約が出る、など様々な障害を生み出します。

流石のラバウル航空隊でも輸送の護衛、ガ島での航空支援に万全を期することはとてもできませんでした。

R方面航空隊の誕生

急遽途中の島に航空基地を造ろうにも、大日本帝国に米軍並みの重機の準備はありません。人海戦術で造ろうにも完全な制海空権はありませんし、第一時間が掛かってしまいます。

しかし大日本帝国海軍には、こんなときの為に準備しておいた部隊があったのです。その「部隊」は開戦以来、太平洋のあちこちに分散していましたが、このピンチについに集合することになったのであります。

外南洋部隊電令;作第七七号(昭和17年8月29日発出)
一、第十一航空戦隊(神川丸欠)、山陽丸、讃岐丸ヲ以テR方面航空部隊ヲ編制ス。指揮官第十一航空戦隊司令官(城島高次少将)。

二、航空部隊ハ「ショートランド」(又ハ「レカタ」湾)方面二基地ヲ設置、主トシテ「ガ」島方面ノ航空戦二従事スベシ。

『R方面航空隊』の結成が命じられたのであります。

R方面とは、ラバウル攻略戦の開始当初から「ラバウル方面」を意味する用語として使われていました。欠とされた神川丸(9月1日に合流)を含め『R方面航空隊』を構成する各艦はすべて特設水上機母艦でした。
なお、第十一航空戦隊は水上機母艦「千歳」・特設水上機母艦「神川丸」・同「山陽丸」で構成されていました。

そうです、海軍は伝家の宝刀「水上戦闘機」をガダルカナル戦域に投入する事を決断したのです。
この当時のR方面航空隊の航空兵力は
「千歳」が零式観測機・九五式水上偵察機計16機、零式(又は九四式)水上偵察機7機。「神川丸」が二式水上戦闘機11機、零式水上偵察機2機。山陽丸には零式観測機・九五式水上偵察機計6機、零式水上偵察機2機。讃岐丸が零式観測機8機となっていました(第二復員局残務整理部資料)。

94式水偵が揚収される

揚収準備中の94式水偵

 

「神川丸」の二式水戦はともかく、水偵や観測機(戦艦の弾着観測用)で戦えるのかよ?って仰いますか。
帝国海軍の水上機を舐めてもらっては困りますね。戦史叢書の「南東方面海軍作戦2」から各機のスペックを上げておきましょう。

座席 射撃 爆装 速度 航続距離
零式観測機 2 7.7ミリ×3 60キロ×2 199.5 758
零式水上偵察機 3 7.7ミリ×1 60キロ×2
250キロ×1
203 1404
二式水上戦闘機 1 20ミリ×2
7.7ミリ×2
30キロ×2 235 962
九四式水上偵察機 3 7.7ミリ×2 60キロ×4 149 1100
九五式水上偵察機 2 7.7ミリ×2 60キロ×4 158 908

*距離と速度の単位はそれぞれ「節(ノット)」と「浬(カイリ)」です。時速・キロメートルに換算するには倍にして一割引きが目安になります。

一方、敵機や零戦の性能は?と申しますと

座席 射撃 爆装 速度 航続距離
F4F 1 12.7ミリ×6 515 1240
F6F 1 12.7ミリ×6 900キロ×1
450キロ×2
612 1520
P38 1 20ミリ×1
12.7ミリ×4
900キロ×2 667 1770
零戦 1 20ミリ×2
7.7ミリ×2
60キロ×2 533 3350

コチラの単位はキロメートルです。

速度性能で大きな差があって、我が水上機には生き残る術さえないように思えます。しかし、R方面航空隊はやられっぱなしではありませんでした。

二式水戦

帰還した二式水戦を迎える基地要員
どう見ても「下駄履き零戦」です

二式水戦は皆さまご存じのように零戦の派生型、「下駄履き零戦」であります。速度性能はそこそこでも、軽快な運動性に優れ、格闘戦においてはライバルを圧倒するだけの実力の持ち主だったのです。

零式観測機は複葉のクラシックなスタイルながら、実は全金属製の非常に堅実かつ運動性能に特化した機体で、名手が乗れば昭和20年の段階でもF6Fを撃墜することが出来ました(藤田信雄少尉)。複葉の古臭い機体に追い詰められて墜とされる敵パイロットの気持ちを考えますと、不謹慎ではありますが日本人としては快哉を叫ばずには居られないところではないでしょうか?

R方面航空隊の活躍ぶり

脱線しました。R方面航空隊の活躍を紹介申し上げましょう。

R方面航空隊の城島司令官はレカタ湾基地の設営を具体的に命じつつ、9月2日には早くもショートランドに将旗をすすめます。指揮下の水上機母艦も続々と集合し、ショートランド泊地の対空・対潜警戒、ブインの陸上基地候補地の偵察などにあたっています。

離水する零式観測機

離水する零式観測機

昭和17年9月4日の早朝「神川丸」の二式水戦11機、零式水偵2機が、ショ-トランド水上機基地に進出、水戦隊は対岸のポポラング島に基地を設けて二式水戦2機を常時待機させる体制を構築します。

以後は連日のように基地上空哨戒にあたり、水上艦艇援護・ガダルカナル島の偵察等を行いました。

ショ-トランドはガ島増援部隊の出入りも盛んになり、R方面航空隊の活発な行動も目立つようになって、敵機の偵察も盛んになってきました。この為に連日6~14機で上空警戒に当たっています。4日にはB-17も飛来し、二式水戦と零観が対応します。

B17G

B17G

特に緊急離水した二式水戦(川村飛曹長、松本二飛)は高度3,000メートルで捕捉に成功。直下方攻撃と後下方攻撃の二撃(二機別々か編隊機動かは不明)をかけ、B-17の右翼内側発動機から白煙を吐かせたのですが、さすがに撃墜はできませんでした。

インディスペンサブル環礁の潜水艦

インディスペンサブル環礁はガダルカナル島よりさらに南側にあり、当然米豪軍の制空権下にありました。
かなり苦労してレカタ湾に前進基地(ここがガ島に最も近い日本軍基地となりました;ガダルカナルまで135浬)を造ったR方面航空隊は、次にガ島に接近する連合軍艦船を発見するために、このインディスペンサブル環礁を利用することを計画しました。

レンネル諸島(インディスペンサブル環礁)

レンネル諸島(インディスペンサブル環礁)
Wikiより

足の長い零式水偵6機(一直あたり3機)を用いてレカタ湾基地を出発、一気にインディスペンサブルに到達し、潜ませておいた「伊百二十二」潜水艦から燃料補給を受けてこの地点から70度から110度の間を300浬(約550キロ)進出して洋上偵察しよう、という作戦でした。
9月14日に初めて実施され、連日二直で行われています(終了命令は9月20日)。これらの偵察で敵艦船を発見しても、遠いガ島のさらに南方からやってくる船団を攻撃することはR方面航空隊にも出来ません。

ラバウルで撮影の零式水偵

零式水偵、ラバウルにて

時は陸軍川口支隊のガ島輸送と反攻準備の進んでいる最中であります。城島高次司令官は非情にも思える決断を下します。
「ガ島攻撃」。R方面航空隊の各機は爆弾を積むこともできるのです。敵の偵察・攻撃に防御戦を行うだけではなく、積極的に叩いてやろう、と。鈍足・鈍重な下駄履きで敵基地に殴り込んでやろう、と。

ラバウル零戦隊の補完が任務ならばやらなくても良い攻撃なのですが、戦争の行く末を思う時、居てもたってもおられなかったのでしょう。

ガダルカナル空襲

R方面航空隊のガ島攻撃をみて驚くのは、50機内外の稼働機でショートランド・レカタ湾の防空もやり、ラバウルに入港する船舶護衛もやり、ガ島偵察任務もやり、対潜警戒もやり、その上で継続的に攻撃を繰り返している点です。

米軍の誇るB-17のように高空を飛ぶわけでも撃たれ強いわけでもない、鈍足機です。何度も何度も在泊艦艇や滑走路を爆撃に行くのは、どれほどの技量と勇気を必要としたことでしょうか。

9月7日にショ-トランド上空にBー17爆撃機を邀撃したものの、再び撃墜に至らなかったR方面航空隊はついにガ島攻撃作戦を発動、翌8日から実施したのです。

昭和17年9月8日、ショートランドを出撃した水上機隊(残念ながら機種・機数不明)は、ルンガ泊地で揚陸作業中の巡洋艦1隻・駆逐艦6隻・輸送船数隻を攻撃し、駆逐艦1撃沈、駆逐艦1隻を撃破する戦果を報告しています。

9月12日には二式水戦2機によるガ島偵察を実施、さらに翌日も薄暮偵察を行いました。この13日の偵察時にはヘンダーソン飛行場上空で着陸待ちをしている10数機の米軍機に紛れ込み、川村飛曹長が着陸寸前のF4Fワイルドキャット(米軍記録ではSBDドーントレス艦上爆撃機)を一撃して撃墜する戦果も挙げています。

ヘンダーソン飛行場のF4Fの列線1942

ヘンダーソン飛行場のF4Fの列線1942

2機は混乱に乗じて脱出にも成功し、無事に帰投しています。

前夜からこの朝にかけて行われた陸軍・川口支隊の総攻撃は失敗に終わっていましたが、日本軍にはその成否は不明でした。皮肉にもこの偵察攻撃によって飛行場が未だ米軍の手にあることが判明したのでありました。

開く戦力差

こうしてR方面航空隊は地味な活躍を続けたのですが、ガ島での反撃はうまくいきませんでした。

そうこうするうちに、ラバウル航空隊やR方面航空隊の努力で何とかバランスが取れていたガ島周辺の戦力比が米軍へと傾き始めます。
戦術的にはヘンダーソン飛行場(元々我が軍が造成していた)の存在が大きかったこと、戦略的にはこの時期になって米国の超巨大な工業力が軍需に合わせてきたことがその原因になっています。

ガ島の航空戦力も強化され、R方面航空隊の損害が増えていきます。
ガ島の偵察にでた二式水戦3機が全機未帰還となり、この3機の捜索に出た2機の二式水戦もまた帰ってこなかったこともありました。

この時は、同日夕刻にヘンダーソン飛行場に最大規模(二式水戦2機・零式観測機19機)の報復攻撃をかけ、不確実1を含むF4Fワイルドキャットを5機撃墜、在地機数機を撃破炎上、飛行場3ヶ所を炎上させる戦果を挙げています。

零式観測機

零式観測機

R方面航空隊の損害は二式水戦1機と零観2機が未帰還、零観2機が被弾不時着水して沈没。

このようにR方面航空隊は僅かばかりの兵力の増強を受けつつ、奮闘を続けるのですが、徐々にショートランド、レカタ湾への航空攻撃の規模が拡大し、防御に手一杯となります。
特に9月下旬になるとB-17の来襲が回数・機数ともに飛躍的に増大していきます。非力な零観・二式水戦では致命傷を与えることは難しく、24日・26日には1機ずつの撃墜を記録しましたが、被弾機も多数に上っています。

10月に入ると、米軍の圧力はますます強大となり、10日に至りR方面航空隊の稼働機数はついに0となってしまいました。

水上機母艦も安全を考慮して「千歳」は9月27日にカビエンに、讃岐丸は陸軍機の輸送がてら10月13日にラバウルに避退しています。

R方面航空隊は昭和17年9月2日にショートランドに進出以来、10月10日にいったん壊滅となるまでほぼ一か月半です。この間一日の休みもなく戦い続け、個人出撃回数も川井治郎一飛曹の43回、渡辺輝男一飛の41回など、超人的な活躍を続けたのです。

再建と苦闘

10月12日、補強のために横須賀に帰っていた「聖川丸」が二式水戦9機を乗せてショートランドに到着、水戦隊は神川丸飛行長の指揮下に入りました。

以前(と言っても僅か40日前です)は効果のあったインディスペンサブル環礁を補給点とした哨戒を再開しようとしましたが、もはや潜水艦は浮上する事さえできませんでした。上空はB-17によって制圧されてしまっていたのです。

未だにF6Fは戦域に姿を見せず、F4Fとドーントレスとアベンジャーが相手ならR方面航空隊の水上機にも戦う術がありましたが、「空の要塞」B-17が相手では体当たりしか手はありません。

SBDドーントレス

SBDドーントレス

F4Fやドーントレスも機数が飛躍的に増え、それに比例するようにR方面航空隊の損害は増えていきました。

ミッドウェイで被弾したTBFアベンジャー

ミッドウェイで被弾したTBFアベンジャー

その上、この時期から米軍は魚雷艇をこの海域に投入しました。これが大日本帝国海軍の一大脅威となります。駆逐艦でも魚雷艇を追い回すには大きすぎ、種々の特設小艦艇では速度がまるで不足で対応できるフネが無かったのです。

R方面航空隊は、魚雷艇への対抗も担当しなければならなくなってしまいました。多忙を極める任務の中、R方面航空隊は魚雷艇退治にも真摯かつ積極的に対応していたようです。

PTボート

米軍魚雷艇
この「PT109」の艇長は何故か日本でも有名人ですね。

はっきりとした戦果の確認が取れないのですが、搭乗員からの意見具申で九四式水偵をいったんラバウルに引きあげ、20ミリ機銃を装備した記録があります。
九四式水偵は3座で速力は遅いのですが、目が多ければ敵魚雷艇のトレース能力が高く、鈍足は小半径で旋回できることを意味していますから、PTボート狩りにはうってつけだったのでしょう。

94式1号水偵1944ごろ

94式1号水偵
琵琶湖で撮影と推定(昭和19年か)

この改造は昭和17年の12月一杯かかったようですが、ほぼ同時期に重巡「鈴谷」軽巡「川内」などから艦載の零式3座水偵を降ろし、R方面航空隊に編入しています。

ガダルカナル撤収

苦闘が連続していたのは、何もR方面航空隊に限ったことではありません。大日本帝国海軍は全力でガダルカナル島へ増援と補給を送るべく努力を続けました。海軍の尻ぬぐいをさせられる形の陸軍も、不足する兵力をあちこちから抽出し、何とか取り返そうと努力を続けていました。

ただこの状況を冷静に俯瞰すると、大日本帝国は戦争の本質(国内工業生産を支える資源確保のための戦争)を見失い、全くの脇道(反攻基地となるだけのオーストラリアとアメリカ本土との連絡遮断)を守るために、絶対に避けようと考えていた消耗戦に自らのめり込んだ形となっていたのです。

戦力的にはるかに劣っても、距離的に不利な状況を押し付けられても、旺盛な闘志と忠誠心・創意工夫と強靭な克己心で戦線を支え続けたラバウル航空隊やR方面航空隊などのパイロット。
彼らの存在が逆に上層部の判断を鈍らせてしまったのでしょうか?甘い判断が優秀なパイロットに依存する戦いを続け、彼らの損耗を招く原因だったのでしょうか?
現代の日本防衛を考える上で、もっともっと議論すべきであろうかと思います。

昭和18年1月23日、R方面航空隊に行動要領が示達されました。

一、一月二十四日頃ヨリ「エスペランス」「ルンガ」沖ノ敵魚雷艇ヲ掃討ス
二、X-7日「ルッセル」島占領部隊泊地侵入時ニ於ケル泊地附近ヲ警戒ス
三、X-4日、X-1日、X+2日「ガ」島撤収部隊ノ泊地進入時前ヨリ前路警戒及泊地警戒ヲ行フ
四、X+5日頃「ルッセル」島撤収部隊の泊地附近ヲ警戒ス
五、敵情二応ジ「ガ」島「ルッセル」島間又ハ「ルッセル」島「ガ」島間ノ大発機動部隊二対スル対魚雷艇警戒ヲ行フ

Xとはガダルカナル島の陸上部隊の撤収日を指しています。ついに帝国はガダルカナルを敵手に明け渡し、先の見えない消耗戦から手を引く決断をなしたのでありました。

ガダルカナルの皇軍兵士

ガダルカナルの皇軍兵士
後方の船舶は大発でしょうか?
ガダルカナルで健在の皇軍兵の写真は非常に珍しいと思います。

 

行動要領に見える「ルッセル」島とは現在ではラッセル島と表記されます。万一計画通りの駆逐艦による撤収が出来なかった場合、ガダルカナルから舟艇(大発)機動によってこのラッセル島まで引揚げ、ラッセル島で駆逐艦に乗艦させようと準備したものです。

二次に渡る駆逐艦での救出に成功したのに、臆病風に吹かれた第八艦隊司令部が最後の撤収を舟艇機動に変更しようとたくらみ、指揮下の駆逐艦長全員に反対されて駆逐艦での脱出に戻したことはレスキュー駆逐艦『濱風』でも触れています。

R方面航空隊はこのラッセル島占領部隊の護衛・前程警戒に任じ、ガダルカナル撤収のバックアップを務めることになりました。その任務を大過なく果たしたのですが、R方面航空隊の特徴である水上機母艦は次々と沈められる輸送船の穴埋めに駆り出され、損耗していきました。

海軍全体としても戦力、特に航空戦力を立て直す必要がありました。

昭和18年4月15日にはR方面航空隊の母体である第一一航空戦隊が解隊され、「神川丸」と「国川丸」の飛行機隊は『第九三八海軍航空隊』に新編成されたのでありました。R方面航空隊はその後も名前は残ったものの、実質的な戦力としてはカウントされなくなって行くのでありました。

大きな戦果を上げる事だけが貢献じゃない

アメリカ太平洋艦隊の司令長官、チェスター・ニミッツ大将は昭和17年10月下旬、「現在我々はガ島付近の海域を支配することは困難なように思われる」と言っています。
R方面航空隊もいったん壊滅してしまった時期と重なります。

ガ島攻防を巡って、良く引き合いに出される言葉ですね。「事態は絶望的ではないが、確かに危機に瀕している」と続きます。私たちはもう少しだったんだ、と満足感にひたるだけでなく、ニミッツ大将をしてこう言わしめた真の戦力とその戦い方を知らなければいけないと思うのです。

日本が生き延びるために。

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R方面航空隊~ソロモンの海空を守りぬいた水上機隊~” に対して2件のコメントがあります。

  1. DB103 より:

    最後のコメントは言い得て妙ですね。この方面の零観の苦戦と乗員の健闘については、種々伝説が流布されており、中には事実と異なるようなものも多いと思います。個人的には証言を元にした渡辺洋二氏の著作がもっとも正しいように感じています。

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